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日本文学简史1、上代文学(1).ppt2、上代文学(2).ppt3、中古文学(1).ppt4、中古文学(2).ppt5、中世文学(1).ppt6、中世文学(2).ppt7、近世文学(1).ppt8、近世文学(2).ppt9、近世文学(3).ppt10、近代文学(1).ppt11、近代文学(2).ppt12、近代文学(3).ppt13、现代文学--昭和初期文学.ppt14、现代文学--战后文学(1).ppt15、现代文学--战后文学(2).pptx16、现代文学-战后文学(3).ppt17、当代文学.ppt全套PPT课件第一節:上代の文学概観1大和朝廷の成立

大昔に人々が神を祭り祈った時、また祖先を敬い後世に語り伝える時に使われた言葉が文字の起こりだと考えられる。文学史では文学の起こりから、七九四年、平安京に遷都するまでの期間を上代という。

大和朝廷の成立日本人の祖先が日本列島に住みついてから数千年を経て、新石器時代を迎える。そのころの人々は狩猟や食物の採集を中心に移動生活を営んでいた。それが縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良と時代が移るに従って、農耕を中心とした定住生活へと変わっていった。

そして人々の集落は村となり、それが集まって小さな国家となっていった。四世紀ころには天皇を中心とした大和朝廷が勢力を持ち、小国家を統一した。

大和朝廷の成立2中国大陸との交流大和朝廷においては土地や人々を所有する豪族の力が強かった。そのため天皇の地位は不安であった。しかし、その後、朝鮮半島との接触を通じて中国大陸の文化や仏教を導入し、さらに遣隋使、遣唐使を派遣して中国の国家制度を学び取ることにより天皇を中心とする国家が形作られていった。大化の改新が断行され、七世紀後半には天皇中心の律令国家が出来上がった。

3祭りと上代歌謡古代の人々は集団生活を営みながら、人間の力を超えた自然を恐れ神の存在を信じた。そして、集団で神々を祭る行事を行い、生活の繁盛と幸福を祈った。祭りは人々の生活と密接した非常に重要な行事であった。やがて祭りでは、楽器や踊りを交え、節を付けて神々への祈りや感謝を歌うようになった。これを上代歌謡と祭りと上代歌謡

いう。祖先の業績を称えることば(語り)や湧き出る感動を率直に歌ったことば(歌い)などは、子孫へと語り継がれていった。

上代の歌謡はほとんど伝わっていないが、中には書物に記載されて今日まで残っているものもある。このうち、最も多くの歌謡を載せているのは『古事記』と『日本書紀』であり、この両書の歌謡を総称して「記紀歌謡」という。4口承文学から記載文学へ原始未開の社会では、飢えや死などの生活や生命の不安を克服するための呪術信仰が盛んで、その呪術的祭式が共同体の重要な行事だった。そこでは音楽や所作を伴いながら願望を実現するための唱え言が語られ、集団の感情を表現した歌謡が歌われ、神々の更衣が模擬的に演じられた。

口承文学から記載文学へこれらの歌謡や語りごとは、呪術を信じた集団の人々の熱い心情を表現しながら、次第に洗練されていった。やがて生産技術の発達により呪術信仰が衰えると、歌謡や語りごとは祭式から離れ、人々は歌うことと語ること自体を目的年、その中に楽しみや喜びを見出すようになった。こうして文学が祭式から分化、独立する。

口承文学から記載文学へしかしまた呪術的祭式は大規模化した国家の秩序維持、統一強化のための服従礼儀や支配礼儀に改変されて利用され、歌謡や語りごとは政治的性格を加えながらますます発展していった。口承文学から記載文学へ四、五世紀のころから漢字は日本で用いられるようになった。最初は中国大陸から渡ってきた人だけが用いていたと思われるが、やがて、日本語を表わすことができるように表記法に工夫を凝らして日本人も用いるようになった。こうして口承で伝えられた多くの語りごとや氏族の伝承が文字に記録されるようになった。5律令国家体制整備の為大和朝廷は天皇を中心とした中央集権体制を確立するために、歴史書や地誌の編纂を行った。史書『日本書紀』、地誌『風土記』はいずれも官命を受けて編まれたものである。これらは、以前から人々の間で口承で伝えられていたことを、文字を使って記録した記載文学である。

6「個」の目覚め和歌では柿本人麻呂らの活躍により個人の感情が表わされるようになった。「個」に目覚めた上代和歌の集大成が『万葉集』である。「個」の目覚め『万葉集』は主な歌人の活動時期や社会情勢により、四期に分けられる。初期万葉では純粋・素朴な歌風であったが、末期では中古の『古今和歌集』に通じるような繊細な歌風へと変化していった。また、歌人の階層も天皇から農民まで、地域は東国から九州までときわめてスケールが大きい。7漢詩文の流行天智天皇が創作を奨励したこともあって、漢詩文の素養は、当時の知識人たちにとって必要不可欠のものになっていた。sかし、作品は独創性に乏しく、中国六朝時代の模倣に終わってしまったものが多い。8「まこと」の文学

総じて上代の作品には、明朗素朴で男性的なたくましさ、力強さが感じられる。これは『宣命』の中にある「明き清き直きまことの心」から生まれた「まこと」の文学であった。二:神話、伝説、説話一、神話原始社会の人々がまだ自覚的に文学を創造することを知らなかった時に、文学的な性格を持っていたものは呪術的祭式における語りごとであった。祭りの場では、神の事跡や共同体の由来・地名の由来などが語られる。その語りごとは祭式の変遷に伴って内容や性格が変わり、村落や氏族の語り部によって、口頭で伝承されていく。

神話七世紀以降、漢字の伝来に伴って、さまざまな文献に筆録され、今日にまで伝わったのである。それらが広く説話と呼ばれるが、そのうち、現実の世界や人間の起源、あるいは存在の根拠などを神話の働きに基づくものとして語るのが神話である。

神話神話は古代人の想像力から生まれた世界や人間についての解釈を物語風に表現したものだから、古代人の生き生きとした想像力や物語の表現力が感じられ、そこに文学性を認めることができる。

神話日本の神話は『古事記』の上巻、『日本書紀』の神代の巻に記されたものが主要なもので、これを「記紀神話」という。記紀神話は七世紀後半から八世紀初めにかけて大和朝廷がまとめた体系的な国家神話で、天地の初め、国土の形成、神々の誕生、地上への降臨などを歴史の展開として語り、皇室の起源と権威を説いた。神話両書の神話は大局的の同じであるが、『古事記』は一貫性のある物語的性格を有するのに対して、『日本書紀』の神話は多くの異伝を記した。神話◆『古事記』は和銅五年(712)に成立した、文学的要素のある、現存する最古の歴史書である。三巻から成る。上巻は神話の記された神代の巻で、天地創造から神武(じんむ)天皇の誕生までの神話を記し、天照大神(あまてらすおおみかみ)の天(あま)の岩戸(いわと)や、八岐大蛇(やまたのおろち)、海幸山幸(うみさちやまさち)の話が有名である。

神話中巻は神武天皇から応神(おうじん)天皇まで、下巻(げかん)は仁徳天皇から推古天皇までのことを記し、伝説を中心に綴られている。『古事記』の神話や伝説には当時の人々の豊かな想像力や明るく素朴な感情があふれている。二、伝説伝説は神話と比べて歴史性が強く、ある特定の時代や地域に結びついて、事柄の由緒や地名の起源などが語られる。伝説は歴史的事実を基に発生することもあるが、神話が改変されたりして生じたこともある。伝説上代の伝説は『古事記』、『日本書紀』、『風土記(ふどき)』、『高橋氏文(たかはしのうじぶみ)』、『古語拾遺』などに記されている。中でも『古事記』の倭建命(やまとたけるのみこと)の伝説、大和朝廷の東西平定の戦いの歴史を一人の英雄の事跡に託し、叙情性豊かな文学として優れている。伝説◆『日本書紀』は720年に元正(げんしょう)天皇の命令によって、舎人親王が編纂したものである。これは当時の先進国である中国に対して日本国家の優勢を示そうとして編纂されたものである。国内の思想統一を図り、皇室の威信を示そうとしたのを目的とする『古事記』とは対照的なものである。

伝説三十巻からなり、編年体をとり、ほとんど純粋な漢文で述べられている。客観的な史実の基づく歴史書の成果が強く、『古事記』に比べ、文学性に乏しい。伝説◆『風土記』は地方の役所が各地方の地誌としてまとめたものである。現存しているのは五か国の「風土記」だけで、それぞれ出雲、常陸、播磨、豊後、肥前の五カ国の風土記である。この中で完本として残っているのは「出雲風土記」だけである。

伝説文学性はあまり高くないが、上代の地理・文化を知ることができ、『古事記』、『日本書紀』に掲載されていない地方の神話や伝説を見ることができる。文章は大体漢文で、国によってそれぞれ特色がある。三、祭りの文学

――祝詞、宣命一、祝詞――神の恵みを願うことば古代の人々は、神を恐れ敬う気持ちが強かった。また、ことばには霊力があると信じ、よいことばや美しいことばを発すれば幸福が訪れ、悪いことばは災いを招くという「言霊信仰(ことだましんこう)」を持っていた。発したことば必ず実現されると、古代の人々は信じていたのである。

祝詞そのため、神を祭り、神に祈ることばを磨いて厳粛で美しい表現を工夫した。このようなことばを祝詞という。祝詞は原始時代の祈祷や呪言から発しており、部族間の争いの勝利者として、自分たちの祭祀の場を保存できた大和朝廷に伝えられたものである。

祝詞それらは皇室の安泰や国民の繁盛を祈祷する語りものであり、宮廷の礼儀に、豊作祈念や悪病退散のために、神に語りかけたものである。現存しているのは「延喜式」に載っている二十七編と「台記」に載っている一編だけである。祝詞集侍神主・祝部等、諸聞食登宣。高天原爾神留坐、皇睦神漏伎命・神漏彌命以、天社・国社登稱辭竟奉、…祝詞訳文:「あつまってうごめいている神官たち、皆お聞きなさい」という。(神官たちはおおと承知の由を言い、この他の「宣る」というところもこれに従え)「高天の原に神として留まっておいでになる、天皇の親しみ睦みたまう天皇家の祖先神である男神・女神の命令意で天つ神を祭った神社と国つ神を祭った神社とに、たたえごとを申し上げる…」二、宣命天皇から臣下への詔(みことのり)のうち、漢文体で書かれたものを詔勅といい、特徴的な和文体表記(宣命体)で書かれたものを宣命という。現存する古いものでは『続日本紀(しょくにほんぎ)』に収められている六十二編があり、文武天皇即位のとき(697年)以後のものである。

宣命ここでの宣命は天皇の即位、改元など国家的行事・事件に際して発せられた天皇の公的な意思表示である。表現は当時の口語を基本にし、技巧よりも伝達ということを重視し、より散文化されている。一、上代歌謡和歌が発生する以前に、古代社会の人々の感情を表現しているものは歌謡である。歌謡は祭式や酒宴などの共同体の集会、あるいは作業など、多くの人々がなんらかの行事や仕事を共にする場で、感情の高まりが短い叫びの言葉や掛け声として表わされたものである。

上代歌謡歌謡もまた集団の場で伝承されるうちに洗練され、文学性を持つようになった。舞踊や楽器の伴奏を伴い、節をつけて繰り返して歌われるのだから、言葉に韻律があり、叙情的な内容を有している。

上代歌謡上代歌謡の多くは、『古事記』、『日本書紀』に載っており、『風土記(ふどき)』『古語拾遺』『万葉集』『琴歌譜』『仏足石歌碑』などにも収められている。上代歌謡は、長い伝承の期間を経た後に、和歌の成立に強い影響を及ぼしたが、本来歌われるものである点で、文字にしるして読まれる歌である和歌に対するものである。上代歌謡『古事記』『日本書紀』にある歌謡はまとめて「記紀歌謡」と呼ばれている。その数は、重複を避けて数えれば約二百首ある。本来は、当時の人々の祭りや生活の中で伝承され歌われたと思われる歌謡が、記紀の神話や伝説と結びつけて引用されているものが多い。

上代歌謡歌謡の内容は、狩猟、祭り、恋愛、酒宴などであり、人々の生活全般にわたり、古代社会の人々の息吹が生々しく感じられる。表現技法は対句や同音の繰り返しなどが多用され、枕詞や序詞も多い。二、万葉集『万葉集』は現存する日本最古の歌集である。二十巻で約四千五百首の歌を収めている。万葉集以前にも幾つかの歌集が存在したが、それらは『万葉集』の資料として利用された部分が、断片的に『万葉集』の中に残っているに過ぎない。

万葉集『万葉集』の成立過程は複雑で、不明な部分も多いが、数次の編集作業を経て、ほぼ現在の形に整えられたのは奈良時代末期と推定されている。編者は全巻に渡って手を加えた者として大伴家持(おおとものやかもち)が有力視されている。万葉集

四千五百首のうち、短歌が約四千二百首、長歌が二百六十首、旋頭歌(せどうか)が約六十首、連歌体一首、仏足石歌一首などがある。基本構成は必ずしも統一されていないが、雑歌・相聞・挽歌の三大部立てに分けられる。その内部で年代順に配列されている。また、巻によっては正述心緒歌(せいじゅつしんしょか)・寄物陳思歌(きぶつちんしか)という分類法や、四季によって配列する方法も行われている。万葉集作者層は天皇から一般人にいたるまで幅が広く、地域が大和を中心にしながらも、東国、九州などと、広がりがある。漢字を表音文字として用いた万葉仮名は、表記の特徴となっている。

『万葉集』は歌風の変遷に従って、通常四期に分けて考察されている。万葉集第一期――舒明天皇(629年即位)の時代から壬申の乱(672年)前後まで。和歌の発生する時期で記紀歌謡の末期と重なっている。和歌の黎明期である。この時期は政治的激動の時期で、皇室を中心にさまざまな刺激を受けて個性の自覚が進んでいった。

万葉集このような中で、歌は上代歌謡のように集団の生活を背景にした歌から、個性的な叙情歌へと変化していった。感動を率直に表現した素朴な歌風が特徴である。皇室歌人が多く出たが、代表歌人としては、舒明天皇、額田王(ぬかたのおおきみ)などがいる。そのうち額田王が特に優れている。

万葉集大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は、煙たち立つ海原は鴎立ち立つうまし国そ蜻蛉島、大和の国は(舒明天皇巻一)

万葉集訳文:大和には群がる山々があるが、よく形の整った天の香具山に登り立って国見をすれば、広い国から煙が立ちに立ち、広い海からは鴎がしきりに立つよ。良い国であるよ、(蜻蛉島=枕詞)大和の国は、万葉集第二期――壬申の乱(672)前後から平城京遷都(710)まで。律令国家が発達して言った活気に満ちた時期で、宮廷歌人という専門の歌人が活躍し、皇室を称える歌が多く詠まれた。表現技法が発達し、和歌の形式が完成したのもこの時期である。特に長歌の発達は著しく、柿本人麻呂や持統天皇などによって完成された。万葉集春過ぎて夏来るらし白たへの衣干したり天(あめ)の香具山(かぐやま)。持統天皇(雑歌、巻一)万葉集口語訳:春が過ぎて夏がやって来たらしい。真っ白な衣が干してある。天の香具山に。万葉集第三期――平城京遷都(710)前後から天平五年(733)ごろまで。律令国家が完成し、大陸の思想や文化が導入されるなど、知識人が輩出した。知的で個性的な歌人が多く出た。彼らは個性豊かな歌を詠み、万葉集の最盛期を迎えた。

万葉集最盛期の歌は繊細で洗練されており、初期の素朴さは失われていった。また、代表的な歌人は山上憶良(やまのうえのおくら)、大伴旅人(おおとものたびと)、山部赤人(やまべのあかひと)、高橋虫麻呂(たかはしむしまろ)などがいる。我妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙し流る。大伴旅人(巻三、挽歌)万葉集口語訳:我が妻が植えた梅の木を見るたびに胸がいっぱいになり涙が流れる。万葉集第四期――奈良時代前期の七三四年(天平六)から、『万葉集』の最後歌が作られた七五九年までの約二十五年間である。政治権力をめぐる対立が相次ぎ、律令制の矛盾が表面化し始めた時期である。抒情詩である和歌は、このような社会では力を発揮することができず、次第に男女の私的な感情や個人の孤独なつぶやきを歌うだけになっていた。

万葉集繊細優美な感覚の歌が多くなり、男性的な力強さは段々失われた。歌風は中古時代の『古今和歌集』に近い。代表的な歌人は大伴家持がいる。うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しも独りし思へば。大伴家持(巻十九)万葉集口語訳:うらうらと照っている春の日に雲雀があがり、私の心は悲しいことだ。独りものを思っていると。万葉集東歌と防人歌

『万葉集』の巻十四に東歌が約二百三十首収められている。東歌は東国(現在の関東や東北)地方の人の歌並びに東国関係の人々の歌を指す。東国の民衆の生活を舞台に民謡で歌われており、素朴さが特徴である。万葉集防人歌は巻十三・十四・二十に収められ、約百首ある。防人は北九州海岸を防備するため、東国から派遣された兵士のことである。彼らの和歌を防人の歌と言う。大部分は天平勝宝七年(755)、筑紫へ向かうため難波に集められていた防人たちによって読まれたもので、大伴家持が記録したと思われる。ほとんどが家族との別れの悲しみ、望郷の思いを歌った内容になっている。三、漢詩文『懐風藻』は現存する最古の漢詩集である。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)(751)年に成立した。編者は淡海三船(おうみのみふね)とも言われているが、はっきりしない。漢詩文天智(てんじ)天皇は中国の律令制度を取り入れ、大化の改新を断行した。そして、文学の面でも漢詩文を大いに奨励した。漢詩文は律令政治の担い手である貴族にとって必須の教養として重んじられたのである。そしていくつかの漢詩文集が編纂されたが、現在まで伝わっているのは『懐風藻』だけである。

漢詩文『懐風藻』は当時の漢詩集として現存する唯一のものである。大部分が五言詩で、宴会や遊覧の時の作が多く、中国の六朝時代の詩の影響を強く受けている。独創性に乏しいが、これによって当時の知識人の教養や生活を知ることができる。

漢詩文金鳥臨西舎鼓声催短命泉路部賓主此夕離家向

――大津皇子(臨終)漢詩文口語訳:日は西傾いて西の家屋を照らし、時を告げる太鼓の音は私に短い命を急き立てるかのように響く。死出への旅は客も主人なく自分一人、この夕暮れに家を出てその道に旅立つのだ。漢詩文漢詩文の隆盛に伴い、中国の詩学を和歌に当てはめようとして、和歌に関する歌論書も出た。日本最初の歌論書は『(「)歌経標式(かきょうひょうしき)』(」)で、和歌の起源、意義から説き始め、歌病と歌体を例示したものである。中古時代の日本文学中古文学概観中古文学概観1貴族の時代七九四年の平安京遷都から、一一九二年の鎌倉幕府の成立までの約四百年間を中古(平安時代)という。八世紀半ばには公地公民制は、上代末期から崩れかけていた。九世紀以後、貴族たちの荘園が一層増え、律令政治は急速に崩壊して、貴族の時代を迎えた。ことに藤原氏は、荘園経済を基盤とし、他氏排斥や外戚政策によって着実に勢力を伸ばしていった。中古文学概観中古文学概観1貴族の時代九世紀半ばごろ、藤原良房が摂政となり、摂関政治が始まった。藤原氏は栄華を極め、文学の世界も、貴族文学の最盛期を迎えた。しかし、十一世紀後半には、摂関政治は次第に無力化し、院政が始められた。その院政もまもなく衰え、新しく台頭してきた武士階級が政権を握るようになり、貴族時代は終末を告げた。中古文学概観2漢詩文から和歌へ唐風文化尊重の風潮は、中古になっても続いた。九世紀はじめには、勅撰漢詩集『凌雲集』が編纂されるなど、漢詩文は全盛期を迎えた。しかし、九世紀末には唐風文化に代わって、国風文化は勢いを取り戻した。中でも、漢字をもとにした仮名文字の発明と普及は文学の大きな発展を推進した。中古文学概観2漢詩文から和歌へ和歌も再び開花し、十世紀初めには、優美な「たをやめぶり」を基調とした『古今和歌集』が成立するに至った。漢詩文は宇多・醍醐天皇の時に菅原道真を頂点として一時的隆盛を見るが、政治的意図と不可分のものだったから、律令制とともに衰退していった。中古文学(概観)3女流文学の隆盛

藤原良房に始まる摂関政治は、天皇の母方の祖父ないし叔父が摂政・関白に任命されて政務を掌握するもので、その基盤は全く私的な人間関係であったから、有力貴族は争って子女を天皇の後宮にいれ、才媛を集めてその女房とした。中古文学(概観)3女流文学の隆盛和歌が復興し、後宮において女流歌人が輩出した。平仮名の発達と和歌の習熟は女性の表現能力を拡大させた。十世紀末から十一世紀にかけて摂関政治が全盛期を迎えたころ、宮廷の才媛による女流文学のも黄金期を迎えた。中古文学概観紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』、道綱の母の『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』などの日記がその主なものである。それらの女流作家・歌人はほとんど女房であるか、そうでなくても地方官など中流貴族の出身であったことは重要である。華麗な貴族文化の陰で、一夫多妻制などきわめて不安定な立場に置かれていたことによる不安が、彼女たちを文学に向かわせたと考えても良い。

中古文学概観4貴族文学の変質貴族階級の没落につれて、十一世紀後半以後、貴族文学は生気を失っていった。中古末期には、王朝の盛時を回顧する歴史物語『大鏡』や、感傷的な『更級日記』が書かれた。一方、新時代の胎動を示す説話『今昔物語集』や、庶民の間に歌われた歌謡の集成『梁塵秘抄』も生まれ、和歌でも次第に新風が吹き込まれた。

中古文学概観4貴族文学の変質

中古文学は、素朴で力強い上代文学に対して、優美繊細な情趣を基調とする。その中心理念はしみじみとした情趣の「もののあはれ」である。それは、生活に調和的優美さを求めてやまぬ平安帰属が生み出したものであり、華やかさの裏に、社会の矛盾を鋭く感じ取って、苦悩の日々を送った女性たちが生み出した理念でもある。この理念は『枕草子』の理念である『をかし』とともに、中古文学の思潮を代表し、日本文学を貫流する理念である。中古文学(詩歌)歌謡:古い時代には歌謡と和歌は分離していなかったが、平安時代になると両者は分離し、それぞれ発達した。平安時代には、神楽に用いる神楽歌(かぐらうた)、同じく神前に用い、元東国の民謡であった東遊歌(あずまあそびのうた)、貴族の遊宴に用いる催馬楽(さいばら)・風俗歌、さらに詩文の佳句を吟唱する朗詠があった。

中古文学藤原公任の『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』や、藤原基俊(もととし)の『新撰朗詠集』が朗詠用の章句を集めたものである。しかし、重要なのは今様(いまよう)である。今様とは新風の歌謡のことである。遊女や白拍子(男装で舞を舞った遊女)によって謡われた。主に仏・浄土・恋愛などを題材とする。院政期になると、今様という七五調の四句からなる新しい歌謡形式が大流行した。中古文学

調子がよいが、庶民の哀切な感情を映した物が多い。後白河天皇が遊女の協力で編した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は今様とそれに関する口承を集めたものである。遊びをせんとや生まれけむ戯れせんとや生まれけむ遊ぶ子供の声聞けばわが身さへこそゆるがるれ

中古文学(概観;詩歌)[口語訳]あそびをしようと、戯れをしようと、この世に生まれて来たのだろうか。遊ぶ子供の声を聞いていると、私の体も揺さぶられて動き出しそうだ。中古文学漢詩文奈良時代の後期に入ると、揺らぎつつあった律令制度を立て直すため、貴族はあらゆる面において唐の制度と文化を規範として取り入れようとした。漢詩文は唐風文化を積極的に摂取しようとした宮廷社会の意向を反映し、平安時代初期にもおおいに流行した。中古文学漢詩文当時としては政治家としての第一条件は優れた詩人であることとされ、漢詩文の才能が出世の条件とも成った。平城、嵯峨、淳和天皇のころ(八○六~八三三)、漢詩文は和歌を凌ぐ勢いがあり、三つの勅撰漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』『文華秀麗集』『経国集』が編纂され、漢詩文の全盛期を迎えた。中古文学(詩歌)三大勅撰漢詩集は内容から見れば、天皇の作った詩に唱和する詩と天皇の命令をうけて作ったしがおおい。詩風は『懐風藻』の五言詩に対して七言絶句が中心であった。表現としては、前の時代よりいくらか向上しているが、本質的な進歩が少なく、依然として中国の漢詩文の模倣作が多く、個性があまり見られない。

中古文学(詩歌)当時の有名な漢詩人としては嵯峨天皇、有智子内親王、空海、菅原道真などがいる。。空海の漢詩集には『性霊集(しょうりょうしゅう)』が有名であるが、当時として最も注目されるべき漢詩人は菅原道真(すがわらのみちざね)である。彼は自己の内面を詩に託し得た最初の詩人であり、『菅家文草(かんけぶんそう)』『菅家後集(かんけごしゅう)』を著中古文学(詩歌)去年今夜侍清涼秋思詩篇独断腸恩賜御衣今在此捧持毎日拝余香

(『菅家後集』)現代語訳:去年の今夜は清涼殿で陛下に侍して、「秋思」の題の詩篇を作り、独り腸を断つ思いであった。そのときに賜った御衣は今ここにある。自分は捧げ持って、毎日、陛下の余香を拝する。中古文学(詩歌)平安中期以後、摂関政治が律令政治に代わり、そして遣唐使も廃止されたため、文学の主流は徐々に和歌に移り、漢詩文は次第に衰えた。しかし、漢詩文は男性の教養として依然として重んじられた。特に838年に中国から渡来した『白氏文集(はくしもんじゅう)』は圧倒的な歓迎を受け、平安中期以後の漢詩だけでなく、平安文学全般にも大きな影響を与えたのである。中古文学(詩歌)

平安中後期には勅撰漢詩集がないが、藤原明衡(ふじわらのあきひら)が編んだ『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』には、平安初期以来、200余年間の漢詩文の粋が集められている。平安後期になると、漢詩文が衰退したが、大江匡房(おおえのまさふさ)などの名が高かった。一、和歌唐風文化が謳歌される中で和歌は表舞台から姿を消していたが、九世紀中ごろから宮廷における女性の地位の上昇、仮名文学の発達、そして唐文化の停滞につれて、和歌が復活の気運が生じ、六歌仙と呼ばれる人たちが活躍した。さらに、貴族たちの間で歌合が流行するにつれて、和歌はますます発達の一途をたどった。

和歌内容的には宮廷社会の情趣中心の生活を反映し、『万葉集』の男性的で素朴な歌風から脱して、優美で理知的なものに変化していく。技巧的には縁語・掛詞、見立て、擬人法などが多く使われる。和歌◆最初の勅撰和歌集――『古今和歌集』『古今和歌集』は醍醐天皇の勅命を受け、紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の四人の撰者によって編纂された和歌集である。成立は延喜五年(905)と考えられる。和歌

十二巻からなる、歌数は約千百余首で春、夏、秋、冬、恋のように分類配列し、仮名と真名の序がつけられている。万葉集以降の約五十年間の和歌を集めているが、これを三つに区分することができる。第一は読み人知らず時代、第二が六歌仙時代、第三は撰者時代である。和歌読み人知らず時代:大体平安初期の和歌と言われる。民謡的で個性味の欠けたもの、万葉風の素朴で素直な表現が多い。五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする和歌訳:五月がやってくるのを待って花の咲く橘の香を嗅いだところ、むかしなじみの人の袖の香りがすることだ。和歌六歌仙時代:和歌が興隆に向かう時代で、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主らの個性的な歌人が登場し、技巧を駆使して人生を歌い、後代に大きな影響を与えた。月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつは元の身にして(在原業平、巻十五)和歌訳:月は昔と違う月なのか、春は昔の春ではないのか。自分の身だけは元の身であって。花の色は移りにけりないたずらにわがみよにふるながめせしまに(小野小町巻二)和歌訳:長雨の間に花の色が色褪せてしまうように、物思いに時を過ごしている間に、私の容色は何の役にも立たないままに衰えてしまった。和歌撰者時代:古今集の歌風が完成した時代で、繊細な感覚で捉えられた現実を理知的に処理し、言葉による典雅優美な世界を樹立した。反面、なまの感動に乏しく、言語遊戯的な傾向さえ帯びている。リズムがなだらかな七五調で、三句切れの歌が多く、比喩、縁語、掛詞などの洗練された修辞を駆使した。和歌雪ふれば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける。(紀貫之巻六)和歌訳:雪が降って冬ごもりをしていた草にも木にも春とはかかわりを持たない花が咲いたことだ。

『古今和歌集』の歌風は「たをやめぶり」と称され、優美で女性的だという意味で、『万葉集』の男性的な歌風(ますらをぶり)とは対照的である。和歌◆『古今和歌集』以後の勅撰集『古今和歌集』は勅撰和歌集の始まりとして、後の勅撰集に大きな影響を与えた。その影響は平安時代だけでなく、室町時代にも及んだ。

『古今和歌集』に次いで現れた勅撰和歌集は『後撰和歌集』で、『後撰集』とも言う。

和歌951年、村上天皇の勅命によって、宮中の梨壷に和歌所が作られ、寄人の五人を梨壷の五人という。この五人は、二番目の勅撰和歌集を編んだ。『古今集』の歌人の歌が多く、『古今集』の続編のようなものである。平安中期に、一条天皇のとき、『拾遺和歌集』が和泉式部らによって勅撰され、『古今集』、『後撰集』に漏れた歌の採録が目的とされるから、新しみがない。和歌『後撰和歌集』と『拾遺和歌集』は皆『古今和歌集』を模範として編まれたが、この二集とも『古今和歌集』に及ぶことができない。この三つの和歌集が初めの三勅撰で、後世に「三代集」と呼ばれ、重視されている。

和歌四番目の勅撰和歌集は『後拾遺和歌集』で、1087年に藤原通俊(ふじわらのみちとし)によって選ばれたものである。『拾遺集』に漏れた歌に当代の歌を加え、歌風の変化が見られ、清新な趣がある。特に叙景歌に新しい方向が示されている。

和歌次に出た五番目の勅撰和歌集は『金葉和歌集(きんようわかしゅう)』(1127)で、源俊頼(みなもとのとしより)によって選ばれ、今までの勅撰集と違って、十巻からなり、連歌も載せ、古今集的な歌風から抜け出た歌も多い。和歌六番の勅撰集は『詞花和歌集(しかわかしゅう)』(1151)で、『金葉和歌集』に倣って新風を目指したが、やや保守的傾向がある。『詞花和歌集』以後、都に争乱が続いたが、平家滅亡後の文治三年(1187)、後白河(ごしらかわ)天皇の勅命によって藤原俊成(ふじわらのとしなり)が七番目の勅撰和歌集『千載(せんざい)和歌集』を撰進した。

和歌二百年間の歌を選んでいるが、当代を重んじて、出家歌人が多い。『古今集』の伝統を踏まえながら、平安末期の新旧歌風を統一し、余情・幽玄の歌風を打ちたて、鎌倉初期に成立した新古今歌風の先駆をなすものとして価値が大きい。なお、『古今和歌集』以来の七つの勅撰集に、次期の『新古今和歌集』を加えて八代集と言う。

和歌◆古今集以後の歌人と私家集古今集以後の歌人としては、藤原公任(ふじわらきんとう)、情熱な女流歌人和泉式部、清新かつ奔放な歌風の曽根好忠(そねのよしただ)がいる。また、清新な叙景歌を詠んだ源経信(みなもとのつねのぶ)、『金葉和歌集』の撰者源俊頼も注目すべきである。

和歌また、平安末期の歌人として、藤原俊成と西行が大きな存在である。俊成は優艶な中に哀感が漂う幽玄体の歌を作り、余情を重んじた。西行は出家して各地を遍歴して自然に親しみ、自らの人生を見つめ、悠々とした歌を残した。和歌勅撰和歌集は朝廷の力で編纂された和歌の精華であるが、それらを支える役割を果たした私撰集や私家集の存在も無視できない。私撰集としては『新撰万葉集』や紀貫之の『新撰和歌』がある。和歌私家集としては、和泉式部の『和泉式部集』、曽根好忠の『曾丹(そたん)集』、源俊頼の『散木奇歌集(さんぼくきかしゅう)』、藤原俊成の『長秋詠藻(ちょうしゅうえいよう)』、西行の『山家集(さんかしゅう)』がある。中古の物語一、物語中古に成って、仮名の発達によって表現が自由になり、中国の小説の刺激を受けて文学意識が高まった。これを背景に、古来の民間伝説を基礎とした作り物語が現れた。十世紀の初めに、『竹取物語』は作り物語の代表として現れた。この作品は空想的な筋を中心とした伝奇性の強いもので、日本最初の物語である。中古の物語一、物語そのあと、『宇津保物語』や『落窪(おちくぼ)物語』は『竹取物語』の系統を受け継ぎ、写実性の強い作品であった。これと前後して、歌語りを母胎に歌物語が生まれた。主に『伊勢物語』と『大和物語』である。写実性と叙情性が融合するものである。十一世紀初めに、紫式部は『源氏物語』を書いた。中古の物語一、物語『源氏物語』は作り物語と歌物語という二つの流れを受け継ぎ、さらに日記文学の持つ自照性をうけとめつつ、これらを飛躍的に高め、渾然たる作品に形成し、日本古典文学中の最高傑作だと言える。中古の物語、説話集竹取物語『竹取物語』は最初の物語で、「物語の祖」といわれる。竹取の翁に見出され、美しく成長したかぐや姫が、五人の貴族や帝の熱心な求婚を退け、月の世界に昇天するという内容で、神秘な空想が描かれている。古い伝承に取材し、話としては中国の昔話『斑竹姑娘(はんちくこじょう)』などに酷似している。中古の物語、説話集『竹取物語』伝奇的、浪漫的であるが、貴族社会の現実を風刺を交えて写実的に表現している。非現実的な伝承を超え、虚構と写実とをうまく統一し、社会の実相や人間の心理に迫っていて、作り物語を創始した。作品にあふれている初々しいロマンチシズムは現在なお親しまれている。中古の物語、説話集今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば、さかきの造となむいひけり。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。(『竹取物語』、冒頭)中古の物語、説話集[現代語訳]:今ではもう昔の話だが、竹取の翁というものがいた。野や山に分け入って、竹を取っては、いろんなことに使った。名をさかきの造といった。ある日、いつも取る竹の中に、根元が光る竹が一本あった。不思議に思って寄ってみると、筒の中が光っていた。それを見ると、中に三寸ほどの人が、たいへんかわいらしい姿で坐っていた。中古の物語、説話集宇津保物語

『宇津保物語』は『竹取物語』の系統をうけてきた最初の長編物語である。全書は20巻からなる。物語の前半はまだ伝奇的空想的であるが、後半になると、恋愛と政争に明け暮れする貴族社会の実相を写実的に描いている。中古の物語、説話集宇津保物語

『源氏物語』の写実風へ移行した橋渡しのような役割をはたしている。最初の長篇物語であるが、構成などは統一性を欠き、物語自体が混乱している。中古の物語、説話集『落窪物語』

『宇津保物語』よりやや後に成立した。四巻からなる。継母に虐待されていた姫君は貴公子に救われて幸福になり、継母が懲罰されるという継子いじめの問題がが主題である。当時の社会的欠陥や家庭悲劇を描いている。これは日本の継子いじめ物語の始まりで、日本版のシンデレラ物語とも言える。中古の物語、説話集『落窪物語』

内容面では『竹取物語』や『宇津保物語』に見られる伝奇性はあまり見られなくなり、いっそう写実性的な『源氏物語』へ接近した。思想面では勧善懲悪を提唱している。中古の物語、説話集伊勢物語

『伊勢物語』は初め在原業平(ありわらのなりひら)の和歌を中心として生まれたが、増補を重ねて成長し、最後には百二十五段の歌物語を形成した。在原業平と思われる主人公の生涯をつづった一代気風の物語である。簡潔ではあるが含蓄に富む文章である。中古の物語、説話集伊勢物語主人公のみやびやかで、ひたむきな愛情の種々相が、美しい筆致で描かれている。各段は和歌を中心とする短編物語的なまとまりをなしていて、地の文は和歌の叙情をもりあげている。「みやび」に生きる王朝人の典型を生み出し、物語に限らず、和歌を初め文学や芸能に圧倒的な影響を及ぼした。中古の物語、説話集むかし、をとこ、初冠して、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。このをとこ、かいまみてけり。おもほえずふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。をとここの着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。そのをとこ、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける。

中古の物語、説話集かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られずとなむこいつきていいやりけり。(伊勢物語第一段)中古の物語、説話集[現代語訳]:昔、ある男が、初冠して、奈良の春日の里へ、領地があったので、鷹狩に出かけた。そこにとても美しい姉妹が住んでいた。この男は物陰から見てしまった。思いがけなく旧都に不似合いな美しい女なので、のぼせてしまった。男は着ていた狩衣の裾を切り取って、歌を書いて贈った。その男は、しのぶすりの狩衣を着ていたのであった。

中古の物語、説話集春日野の若い紫草の根ですった、この狩衣の模様のように、私の心は限りなく乱れている。と大人ぶって言いおくった。中古の物語、説話集文学評論家の山本健吉は『古典と現代文学』の中で『伊勢物語』を次のように評価している。

『伊勢物語』に描かれた業平の姿は、当時の青年たちの理想的な人間像としてであった。貴族の出で、容貌美しく、好色の聞こえ高く、また巧みに宮廷詩人として喧伝された男が、いろんな伝説・物語を、一首の結晶作用によって身のまわりに付着させ、ここに万人の理想とする肖像が出来上がったのである。

中古の物語、説話集大和物語

『伊勢物語』が一人の主人公の物語である。それに対して、『大和物語』は十世紀に活躍した風流人物を集めたもので一貫性はない。『伊勢物語』と比べると写実的で、叙情性が劣る。中には芦刈や姨捨など古い伝説も含み、『伊勢物語』と共に重んじられた。日本の歌物語はほかにまた『平中(へいちゅう)物語』と『篁(たかむら)物語』などがある。源氏物語華やかな多様な恋愛が中心で、豪華な宮廷生活を背景に、亡き母によく似ている藤壺、その姪で理想の女性紫の上、そのほか夕顔、明石の上などとの交渉が精細に描き分けられた。第二部は「若菜上」から「幻」までの八巻で、華やかな第一部と異なり、悲劇の物語となる。

源氏物語苦悩する光源氏が出家するのを決意し、死を迎えるまでの後半生が描かれている。第三部は「匂宮」から「夢浮橋」までの十三巻で、光源氏の子である薫を中心に、匂宮、宇治の姫君らの満たされぬ恋が描かれ、人間のあり方が追及されている。

源氏物語第二部に見られる内面描写はさらに深まり、仏教思想による憂愁が漂っている。「橋姫」から「夢浮橋」までの最後の十巻は宇治十帖と呼ばれる。

源氏物語第二部以降、紫式部は一見華やかな貴族社会の背後にあるものを追求し、暗さと深みが加わり、悲愁までも感じさせるが、そこには、作者の深刻な人生批判と真剣な求道精神が見られる。これはほかの物語に見られない優れた点である。源氏物語『源氏物語』に描かれたのは、時間にして帝四代、七十四年、登場人物約四百九十名という膨大な世界である。それにもかかわらず登場人物の性格は見事に描き分けられ、ストーリーの展開上もまったく破綻がない。

源氏物語物語の本質は恋愛小説であるが、実にさまざまな恋愛が書き分けられている、登場人物の心理も深く掘り下げられている。また、自然と人事とが微妙に融合し、全編に「もののあはれ」の情趣を漂わせている。文章は和歌を交え、流麗繊細な分を連ねた代表的な和文体だと言える。源氏物語『源氏物語』は先行諸文学の成果を総合しつつ、それを飛躍的に発展させたもので、日本古典文学の最高傑作と言える。実際、後に王朝文化の象徴として仰がれ、文学のみならず日本文化の前面にわたって甚大の影響を与えている。

源氏物語『源氏物語』の研究書として、本居宣長の『源氏物語玉(たま)の小櫛(おぐし)』、現代語訳として与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子のものなどが有名である。

源氏物語いづれの御時(おほんどき)にか、女御(にょうご)、更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。はじめより「われは」と、思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者におとしめそねみ給ふ。おなじ程、それよりげろうの更衣たちは、まして、安からず。

源氏物語あさゆふの宮づかへにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いと、あつしくなりゆき、もの心ぼそげに里がちなるを、いよいよ「あかずあはれなるもの」に思ほして、人の謗(そし)りをも、えはばからせ給はす、世の例(ためし)にもなりぬべき御もてなしなり。源氏物語現代語訳:いつの御代(みよ)のことであったか、女御更衣たちが数多く御所にあがっていられる中に、たいして高貴な身分ではない方で、とりわけ帝の御寵愛を受けている方がいた。

源氏物語宮使えのはじめから、われこそはと自負しておられる方々からは、身の程知らぬ女よと爪はじきして妬まれるし、その人と同じくらい、またそれより一段下った身分の更衣たちにすれば、ましておだやかではない。朝夕の宮仕えにつけても、始終そういう女たちの胸をかき乱し、その度に恨みを負うことの積もり積もったためでもあったろうか。

源氏物語段々病がちになってゆき、なんとなく心細そうにともすれば実家下りの度重なるのを、帝はやるせないまでに不憫なものと思召され、いよいよ愛しさの増さる御様子で、人の非難など一切気にかけようともなさらない。まったく後の世の語り草にもなりそうなお扱いなのであった。(源氏物語冒頭)

源氏物語以上は源氏物語冒頭のところ、つまり第一帖「桐壺」であるが。次は第四十一帖の「幻」の抜粋であるきさいの宮は、内裏に参らせ給ひて、三の宮をぞ、さうざうしき御慰めに、おはしまさせ給ひける。「ははの、のたまひしかば」源氏物語とて、対のお前の紅梅、いと、とりわきて、後見ありき給ふを、あはれと、見たてまつり給ふ。二月になれば、花の木どもの、盛りなるも、まだしきも、こずゑをかしう霞みわたれるに、かの御形見の紅梅に、うぐひすの、はなやかに鳴き出でたれば、たち出でて御覧ず。源氏物語植ゑて見し花のあるじもなき宿に知らず顔にて来ゐるうぐひすと、うそぶきありかせ給ふ。現代語訳:明石の中宮は宮中へお上がりあそばして、三の宮(匂宮)を光源氏のさびしさを慰めるために六条院へお残しになった。源氏物語「母上が仰せになられたから」(匂宮は紫上にひきとられていた)といって、西の対の御庭先の紅梅を特に大事におもって世話をしておまわりになるのを、光源氏はまことにいじらしく御覧になっていらっしゃる。

源氏物語二月になると、花の咲く木々の、盛りなのも、蕾なのも、一面に梢美しく霞んでいるなかに、紫上の形見の紅梅の木に鶯楽しそうな声で鳴きたてたので、光源氏は縁に出て御覧になる。源氏物語この梅の木を植えて花を賞でた主(紫の上)もいない宿に、そんなことも知らぬげな顔でやって来て鳴く鶯よ。などと詠じながら、お歩きになられる。源氏物語『源氏物語』のテーマ

作者紫式部は54帖からなる大著でいったい何を表現しようとしたのであろうか。これは各時代の多くの研究者によってさまざまな見解がなされた。江戸時代の国学者の本居宣長が提出した『もののあはれ』がもっとも有力な説である。

源氏物語この説は後代の『源氏物語』の研究に甚大な影響を与え、後の学者に受け継がれ、『源氏物語』を解明する上でのキーワードとなっている。近代になっても、『源氏物語』の本質についての探求が続けられ、いろいろな見解が出されている。代表的な見解はそれぞれ、次のとおりである。

源氏物語1、仏教的立場から栄華の中のむなしさを追求し、『宿世』思想を描いた;2人間性の立場から愛欲のはざまにゆれる人間の弱さや人間相互の心の通い合わぬ寂しさを描いた;3女的な立場から、女性運命への関心や女性の解放と救済を憧憬するものを描いた。このように、研究者の立場や方法によって結論が違う。日記

『土佐日記』蜻蛉日記和泉式部日記紫式部日記更級日記讃岐典侍日記日記日記というものは日本ではもともとあったものであるが、貴族の男性が備忘のために公的あるいは私的行事・儀式、あるいは旅行の出来事をを漢文で記録したもので、実用性が強く文学性に乏しい。

日記紀貫之は日記を実用から解放して、人間の内面を表現するための手段とする道を開いた、貫之は漢文を用いずかな文字で、そして女性の立場に立って『土佐日記』を書いたのである。その後、女性の手になる日記文学が盛んに行われるようになった。日記『土佐日記』に続いて、『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などが書き継がれていった。平安後期になると、また『成尋阿闍梨母集(じょうじんあじゃりのははのしゅう)』と『讃岐典侍(さぬきのすけの)日記』が現れた。いずれも中流貴族の女性の手になり、日々の記録ではなく、後日の回想により、自分の人生の意味を問うものである。

日記これは彼女たちが不安定な貴族社会の中で現実の矛盾の集中する立場に置かれて、人生の不安を自覚せざるを得なかったことも大きな理由である。漢文に縛られていた男たちの中から自照文学と呼べるものが生まれたのは、かな文の果たした役割が黙視できない。『土佐日記』

『土佐日記』は紀貫之が土佐守の任期を終えて帰京したときの旅日記として書かれた。その冒頭には「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と書かれ、男が漢文で日記を書くという習慣を打破し、女の手でかなを使って日記を書いてみようと宣言した。

『土佐日記』日記で任期でわが子を失ったことの悲しみや船旅のこと、海賊襲来の恐れ、途中の珍しい風景、帰京したときの喜びなど感情的に述べられている。人間を心の内側から記述する道を開いている。文章は簡潔で文体が平淡軽妙であり、余情に富んでいる。『土佐日記』男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなりそれの年の十二月の二十日あまり一日の日の戌の時に、門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。……『土佐日記』いけめいてくぼまり、みつづけるところあり。ほとりにまつもありき。いつとせむとせのうちに、千とせやすぎにけん。かたへはなくにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたのみなあれにたれば、「あはれ」とぞひとびといふ。

『土佐日記』おもひいでぬことなく、おもひこひしきがうちに、このいへにてうまれしをんなごのもろともにかへらねば、いかがはかなしき。ふなびともみな、こたかりてののしる。かかるうちに、なほかなしきにたへずして、ひそかにこころしれるひとといへりけるうた。『土佐日記』むまれしもかへらぬものをわがやどにこまつのあるをみるがかなしきとぞいへる。なほあかずやあらん、またかくなんみしひとのまつのちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや『土佐日記』わすれがたく、くちをしきことおほかれど、えつくさず、とまれかうまれ、とくやりてん。(土佐日記冒頭と終わりの部分)『土佐日記』[現代語訳]男が書くという日記というものを、女も書いて見ようというので書くのである。ある年の十二月二十一日の午後八時ごろに出発する。その旅のいきさつをほんの少し物に書き付ける。……池みたいにくぼんで、水のたまっている所がある。そばに松もあった。

『土佐日記』留守にしていた五年か六年の間に、千年も立ってしまったのだろうか、半分はなくなってしまっていた。新しく生えたのが混じっている。だいたいがすっかり荒れてしまっているので、「まあひどい」と人々は言う。

『土佐日記』思い出さぬこととてなく、その悲しい思いの内にも、この家で生まれた女の子が、任地で死んで、どんなに悲しいことか。同船の人も、みな子供が寄ってたかって騒いでいる。こうした騒ぎの中で、いっそう悲しさに堪えかねて、そっと気持ちのわかっている人とが読みかわした歌は『土佐日記』この家で生まれた子さえ土佐で死んで帰って来ないのに、留守中の我が家に小松が新しく生え育っているのを見るのが悲しい。といったことだ。それでもまだ言い足りないのか、またこんなふうに。

『土佐日記』かつて生きていた子が、千年の齢を持つ松のように長く生きていたとしたら、遠い土佐であのような悲しい永遠の別れをしただろうか。そんなことはなかったろうに。忘れられない、心残りなことがたくさんあるけれども、とても書き尽くせない。何はともあれ、早く破ってしまおう。

蜻蛉日記『蜻蛉日記』は974年に成立し、上・中・下の全三巻からなり、作者が藤原道綱母である。作者は藤原倫寧(ともやす)の娘で、二十歳のころ藤原兼家と結婚し、翌年道綱(みちつな)を生んだ。才媛であり美人でもある。この日記は女性の手による最初のかな日記である。

蜻蛉日記作者自身の満たされない結婚生活の苦悩と煩悶を、二十一年にわたって回想的につづった作品である。権門の妻妾の一人となった道綱母が、夫の専心な愛を求めたが、夫には愛人ができてから、数十年にわたる嫉妬と寂寥の生活が続いた。

蜻蛉日記結局、彼女は夫への愛をあきらめ、子である道綱をひたむきに愛することで慰めを見出そうとしてゆく。『蜻蛉日記』には作者のそのようなひたむきな心情が赤裸々につづられている。自照性を備えた女流日記文学の先駆として、『源氏物語』をはじめ後世の文学に大きな影響を与えている。

蜻蛉日記かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世にふる人ありけり。かたちとても人にも似ず、こころだましひもあるにもあらで、かうものの要にあらであるもことはりと思ひつつ、ただふしをきあかしくらすままに、……

(蜻蛉日記冒頭)

蜻蛉日記[現代語訳]

若かった日も過ぎ去って、世の中はたいそう頼りなく、どちらとも決めかねて結婚生活を送っている人がいた。容貌も人並み以下で、思慮深さもろくになく、このように(夫から)必要とされずに過ごしているのも、当然だと思いながら、ただ寝たり起きたり毎日を過ごしているうちに、……

和泉式部日記1004年ころできた日記である。和泉式部と冷泉院の皇子敦道親王との十ヶ月ばかりの恋愛の経緯を記したもので、身分の違う二人のやるせない恋愛が百四十七首の贈答歌を中心に語られる。和泉式部日記日記は敦道の求愛から始まり、二人の愛の世界にある熱情的情趣を率直に記した。作者は第三人称で客観的に叙述し、歌物語的性格を持つ。

紫式部日記紫式部が1008年から1010年までの華やか宮廷生活を記したものである。日記には当時の貴族社会の儀式や行事、自分の感想、当時の女流作家清少納言・和泉式部に対する批評などを書いた。

紫式部日記中宮の女房として書いた日記なので、公的な性格を持っているが、華やかな宮中生活に馴染めない作者の哀れな気分が感ぜられる。日記においては清少納言や和泉式部に対する批評は痛烈で、清少納言とは対照的な作者の性格などがうかがえる。

更級日記1060年に成立し、作者が菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)である。菅原孝標女は物語に憧れてそだったが、のちに親しい人々の死別、宮仕え、結婚生活を経て、夫と死別し、孤独に老いてゆく。作者は厳しい現実に直面して、次第に幻滅を味わいついに信仰に生きようとするまでの魂の遍歴がある。

更級日記晩年の寂寥の中で、過去四十年(13歳から52歳)にわたる生涯を回想して、平明な筆致で自序伝的な日記を書いた。全体は暗い感傷的な情けが漂っているが作者は夢想的な性格を持っているので、日記の中で夢についての描写が多く、ロマン性が満ちている。現実の中に、夢と幻とがしきりに交錯しているのが、この作品の特色である。

讃岐典侍日記これは平安末期の作品で、1108年ころ書かれたと推測され、作者は藤原長子とされる。堀河天皇の崩御と鳥羽天皇の即位とを記した歴史物語的な日記である。藤原長子は堀河天皇に使えた女房であったが、後は鳥羽天皇に仕えたことがある。

讃岐典侍日記日記は上下二巻に分かれ、上巻は堀河天皇の病気になることから逝去までの看病記録で、下巻は鳥羽天皇に仕え、先帝を偲ぶことを記している。文章は冗漫ではあるが宮中の様子についての記事が詳しく、作者の堀河天皇に対する情愛もよく滲み出ている。

二、随筆随筆は形式にとらわれず、さまざまな事象を心の赴くままに書きとめたものである。十世紀の末になると日本の宮廷文化が大きく発達し、才子才女を輩出し、人々の感覚は繊細の極地に洗練されたが、そういう宮廷文化を背景に、自然や人事について自由な筆致で書いた作品が現れた。『枕草子』がそれである。枕草子一条天皇の中宮定子に仕えた清少納言が書いたものである。三巻から成る。三百編余の長短さまざまな文章を集めたもので、宮廷生活の回想・見聞または自然・人事に関する随想などをもとにして、日記に類するものも含んでいる。普通は物尽し(類聚)の章段、随想的な章段と日記的な章段に分けられている。

枕草子物尽しの章段では、「木の花は」、「鳥は」のように、いわば美的連想を語るものと、「うつくしきもの」「すさまじきもの」のように、共通の心情語によって、一括できるものを列挙して、作者の美的感覚を示したものとがある。枕草子随想的な章段では、「春はあけぼの」、「月のいと明かきに」というような見聞したものをもとにするものである。この随想的な章段には自然を主とするものと、人事を主とするものとが含まれ、独自の視覚と新鮮な着想をもっている。枕草子日記的な章段は「宮にはじめてまゐりたるころ」「雪のいと高う降りたるを」のように、宮廷貴族や中宮定子に対する褒賞や筆者の自慢話などの内容である。特に中宮定子を中心とした宮廷の様子が明るく、生き生きと写し出されている。その鋭い感受性と歯切れのよい文章表現はほかに類例がない。

枕草子『枕草子』は『源氏物語』とともに平安王朝の女流文学の双璧といわれている。『源氏物語』が「もののあはれ」の情趣を中心としているのに対して、『枕草子』は「をかし」という知的態度で作られたと言えよう。枕草子「枕草子」という題名は中宮定子に兄の藤原伊周(これちか)から紙が献上されたときに、清少納言が「枕にこそ侍らめ」といって賜ったのに基づく。だいたい「枕に置くメモ」という意味である。枕草子春はあけぼの、やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くものをかし。雨など降るもをかし。枕草子秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音、むしのねなど、はたいふべきにあらず。枕草子冬はつとめて、雪のふりたるはいといふべきにもあらず。霜のいとしろきも、またさらぬでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき炭がちになりてわろし。(枕草子冒頭)枕草子[現代語訳]春は夜明けのころがすばらしい。少しずつ白んでいく山際がいくらか赤味を帯び、紫がかった雲が細くたなびいているのはよい。枕草子夏は夜が良い。月のころはもちろんのこと、闇夜にもやはり、たくさんの蛍が飛び交っているのはいいものだ。また一、二匹、かすかに光りながら飛んで行くのも風情がある。雨が降ったりするのも、また趣がある。枕草子秋は夕暮れが風情がある。夕日の光が差し込んで、山の端に近づくころに、烏が巣へ帰る途中で、そこここに三羽四羽、あるいは二羽三羽と群れをなして、あわただしく飛んでゆくのまで何かしらしみじみとする。

枕草子それにもまして、雁などの渡り鳥が、列をなして飛んでゆくのが、点々と小さく見えるさまは、誠に印象的だ。日がすっかり落ちて、風の音や虫の鳴き声などが聞こえて来るその情趣は、またいうまでもない。枕草子冬は早朝が趣深い。その中でも雪の降っている朝のすばらしいのは、いうまでもない。霜の真っ白に降りているのもすばらしく、また、そうでなくても、ひどく寒い朝に、日などを急いで起こし、炭火を持って女官が、廊を渡ってゆくのも、冬の早朝と調和して似つかわしい。

枕草子昼になって寒さがだんだんゆるんで暖かくなっていくと、火鉢の火も白い炭がちになって、風情がない。第一節:中世文学概観1、中世は戦乱の時代

源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府を開いた一一九二年から、徳川家康(とくがわいえやす)が江戸幕府を開いた一六○三年までの約四百年間を中世という。その間には鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、安土桃山時代があった。第一節:中世文学概観

1、中世は戦乱の時代

この時代は政治的動乱の激しい時代であり、承久の乱、南北朝の対立、応仁の乱、群雄割拠の戦国時代などを経て元の政治的秩序が乱れ、下克上の風潮が流行り、貴族階級が次第に没落した。そのかわり、武士階級が台頭し、権力を握るようになった。

第一節:中世文学概観1、中世は戦乱の時代武士達は政治権力を握っているのみならず、経済的にも優位を占めた。中世初期、武士社会は彼ら固有の文学や文化を生み出すまでには成熟しておらず、貴族の文学や文化に憧憬し、これを模倣することに精一杯であった。

第一節:中世文学概観1、中世は戦乱の時代室町時代になると、文化面における貴族の衰退や武士の影響力は著しくなり、半ば貴族化した将軍や大名の主導、庇護のもとに文学活動が展開され、武士階級出身の作者も多くの分野に進出してきた。

第一節:中世文学概観1、中世は戦乱の時代室町後期から安土桃山時代にかけては、町衆とよばれる町人社会も積極的に文学にかかわって来る。文学の担い手がもはや単一ではなくなったことが中世文学の一つの特色といえよう。第一節:中世文学概観2貴族社会の残り火中世前期の代表作というのは『新古今和歌集』である。新古今の歌人たちは、貴族衰退という暗い現実に背を向け、貴族文学最後の輝きとなった妖艶かつ美しい和歌を詠みあげた。その後、源実朝(みなもとのさねとも)の私家集『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』や歌論書『無名抄(むみょうしょう)』などが編纂された。

第一節:中世文学概観残り火2貴族社会の残り火勅撰和歌集も続いて作られるが、和歌は貴族の没落とともに衰退に向かった。和歌に変わって盛んになったのは連歌である。中古時代から和歌の余興として行われていた連歌は二条良基によって芸術的に高められ、山崎宗祇の『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』が出るに及んで最盛期を迎えた。

第一節:中世文学概観2貴族社会の残り火和歌と同じように、物語も衰退した。『源氏物語』の模倣作として『松浦宮物語(まつうらのみやものがたり)』、『石清水物語(いわしみずものがたり)』『住吉物語(すみよしものがたり)』などがある。中世後期、物語は御伽草子にその地位をあけ渡した。第一節:中世文学概観2貴族社会の残り火日記文学も『建礼門院右京太夫集(けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう)』『とはずがたり』だけが残って、次第に消えていった。第一節:中世文学概観3、説話文学から御伽草子(おとぎぞうし)へ『源氏物語』以降衰退した物語は、『今昔物語集』を代表とした説話文学へと主役の座を譲った。中世は説話文学の最も盛んな時代であった。第一節:中世文学概観残り火3、説話文学から御伽草子(おとぎぞうし)へ『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』、『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』『宝物集』、『十訓抄(じっきんしょう)』、『発心集(ほっしんしゅう)』などがある。説話文学は室町時代になると姿を消した。主役の

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