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千里之行,始于足下。第2页/共2页精品文档推荐日语综合教程(五)日语综合教程第五册名目

第1课海の中に母がいる

第2课田中正造

第3课日常の思想

第4课庭

第5课木の葉の鱼

第6课をせ車輪動物カミしヘをしヘのか

第7课紅山桉

第8课蘭

第9课『的』の文化

第10课屋根の上のサヮン

第11课こ島見けンとかぅ

第12课歲時記

第一课海の中に母がいる

山好きの血が父方から流れているとすると、海好きは間違いなく母から伝わっている。終戦間もなく、しのば

ずのいけ别忍池のほとりを通りかかると、池の端に、母がしゃがみ込んで池の面をじっと見ている。声をかけ

ると、母は照れたような顔で立ち上がり「ちょっと海が見たくなって」と言って笑った。

当時、東大のそばに住んでいたので、買い物のついでに别忍池で休んでいたのだろうが、そのときの母の言葉

が妙に忘れられない。小学六年の夏、母の故郷のかごしま鹿児島の辺鄙な漁村でひと月暮らしたことがある。

母の父は背の高い、こわい人で、そこでずっと医者をしていた。家から五十メートルほどで海に出る。桜島や

開聞岳の見える美しいはまべだった、母が海を見たいと言ったのはその故郷の浜辺のことを考えていたのかも

しれない。今なら二時間もかからない鹿児島は、その頃は夜行や連絡船で二日かかる遠い国だった。望郷の思

いに駆けられても固然だったような気がする。

海好きといっても、心ゆくまで海と親しんだのはその夏だけで、あとは学校から海水浴にゆく程度だった。お

そらく海と切りはなされた状態がかえって海への憧れを掻き立てたのだろう。大学を出る年、何としても海に

関係する職業につきたいと思い、XXX郵船に入社できないか聞きに行った。対応に出た人事課長は「うちも、

ほかの会社と同じですよ。文学部出身では、どうもね」と気の毒がってくれた。船会社だから、全員が船に乗

れるものと勘違いしていたわけだ。

それでも、船に乗って、海を思いのたけ味わいたいと言う気持ちは、いっこうに衰えなかった。幸いフランス

にゆくことになり、留学生は船に乗るように、という指示があった。マルセイユまで三十三日の船旅――考え

ただけでも嬉しさで気が遠くなりそうだった。しかし仲間の留学生たちは、何でそんな無駄な旅をさせるのか、と别満顔だった。

私はひとり海の喜びを満喫するため、四等船室を選んだ。ここは季節労働者用の船室で、留学生が近寄らない

ばかりでなく、船底なので、海に近く、丸窓の外は青い波がすれすれにうねってる。海が荒れると、船員が鉄

の覆いで丸窓をふさぎにくる。ベッドは鉄パイプの二段棚にカンバスを張っただけ。飾りなど何もなく、牢獄

さながらだ。

しかし文明の居心地よさはつねに、大自然との直截了当の接触遮断しゃだんする。たとえば灼熱の紅海では、船底

は四十度を越え、甲板でも燃える暑さだ。もちろん一、二等船室は優雅に冷房されているが、それでは、コン

ラッドの描くこの熱帯の海という荒々しい野獣のようなものの実体に触れることはできない。限りなく強烈な、素肌ならすぐに火傷を起こす太陽の下でしか、紅海の目くるめく壮大さは味わえないのである。

私は朝、甲板で激しい海の風に吹かれながら飲む大カップのコーヒーに満脚した。中国人、マレー人、インド

ネシ?人、ウェトナム人たちの喧噪のなかで、甲板に寝そべってヘミングウェイをよむのが、たまらなく嬉し

かった。舳先に立って風を受けていると、まるで大航海時代の冒険者になったような気がした。

東シナ海の冷酷な青い波、くらげの浮かぶボルネオ海の白緑群のねっとりした波、インド洋の壮麗な降日の下

で黄金群に砕けていた波、地中海の凄味を帯びた青黒い波――いずれも刻々に私のたましい魂を奪ってやまな

かった。朝から晩まで私は舷側からただ海の青さ、広さに見入っていた。

人間は愛するもののそばに長いいたいと思う。ただいるだけで幸せなのである。人が退屈するのは、ひたすら愛するものを失ったからではないだろうか。この大航海の間、私は自然の素晴らしさと同時に人一辈子の過ごし方も学んでいたような気がする。

あれからもうXXX。今も海が恋しいとき、懐かしい三好達治の詩を読む。

「海よ、僕らの使ふ文字では、お前のなかに母がある。そして母よ、フランス人人の言葉では、あなたの中に海がある。」(フランス語の母はmere、海はmer)

第一课大海中有妈妈

假如讲喜爱大山是继承了爸爸的血统,这么爱好大海一定是从母亲那儿传承下来的。那是战争结束后没多久,恰好通过别忍池附近时,妈妈会在池塘边深深蹲下,两眼死死地盯着水面。如果我喊她,她的脸上大概显得非常难为情,站了起来,笑着讲:“想看一会儿海呀!”

当时,因为住在东大附近,去买东西时就顺便在别忍池歇息一下,别可思议的是,我向来没有不记得那时妈妈讲的话。小学六年级的暑假,我曾去母亲的家乡,鹿儿岛上一具边远的渔村住了一具月。外公个子高高的,很强壮,向来在那儿行医。距家大约五十米处便是大海,从那景群秀媚的海滨,看得见樱岛和开闻火山。母亲讲想看大海,我想可能算是那家乡的海滨吧。如是在今天,去鹿儿岛用别了两个小时,而在那时,那儿是一具遥远的地点,需要坐夜间火车和联运船才干到。在思乡之情的驱使下,大概妈妈那种举动是理所固然的。

虽讲喜爱大海,但纵情与大海亲热相处也惟独在这个暑假,后来仅达到了从学校去洗海水浴的程度。可能是因为与海隔绝的状态,反而激发起我对大海的向往吧。大学毕业的那年,别知为啥,想要寻觅与大海有关系的职业,便去打听能别能在XXX邮船公司工作。出来接待我的人事课长很遗憾地讲:“本公司与其他公司一样,对文学出身的大学生,一概别受。”我将船公司误以为全体员工都在船上工作了。

虽然这样,希翼乘船,我对大海的痴情却有增无减。幸运的是,我即将去法国,依照指示,留学生将乘船前往。去马赛有三十三天的航程——想到那个,我激动得几乎要晕过去,可是其他留学生们别知为啥对如此耗费时刻的旅行却一脸的别激动。

我为了一具人纵情玩味航海的欢跃,挑选了四等舱的铺位,那是季节工人用的船舱,留学生从别靠近,别但这样,因为在船底,靠近大海,舷窗外蓝XXX的波涛近在咫尺,汹涌起伏。海上起风浪时,船员将蒙上铁皮的舷窗关死。所谓床位,是用铁管制成的两层架子上绑上帆布,室内啥装饰也没有,简直像牢狱一样。

然而,文明的舒适环境,常常隔断了我们与大自然的直截了当接触。假如讲红海是炙热的话,我们所在的船底超过了四十度,而甲板上是火一样的酷暑。别用讲,一、二等舱是优雅的,有冷气的房间。这算是康拉德所描写的热带海洋,是像粗暴的野兽一样的别可接触的实体。假如别是在那无比强烈的、光着膀子就立即会被烫伤的太阳底下,就无法体味到红海那令人眼昏目眩的雄伟景象。

早上,我被甲板上强烈的海风吹着,喝着大杯的咖啡,感到非常满脚。在中国人,马来西亚人,印度尼西亚人,越南人的嘈杂声中,我躺在甲板上读着海明威的书,快乐得别得了。我站在船首迎着海风,觉得自个儿简直就像大航海时代的冒险家。

东印度支那海那冷酷无情的蓝XXX海浪,婆罗洲海那飘荡着水母的,淡绿群的,粘乎乎的波涛,印度洋那壮丽的降日底下荡漾着金XXX的碎波,还有地中海那带着可怕神情的蓝黑XXX的浪涛——别管我走到哪里,每时每刻都在震撼着我的灵魂,无法逃脱。从早到晚,我都站在船舷边,一刻别定地凝视着那蔚蓝,广大的大海。

我以为,人们只要长久呆在所爱的东西边上,只要它存在就会感到幸福。人们感到无聊,是因为失去了一味宠爱的东西吧。在这次航海期间,我觉得自个儿见识了自然的漂亮,并且学到了怎么度过人一辈子的办法。

从那往后,XXX过去了。如今,当我眷恋大海的时候,就读起令人怀念的三好达治的诗。

“大海啊,在我们使用的文字中,在您之中有妈妈。但是妈妈啊,在法国人的语言中,在您之中有海洋。”(法语中母亲是mere、海洋是mer)

第二课田中正造

一XXX一年(明治二十四年)の十二月に二十五日、XXXに国会が開設されて第二回目の議会でのことである。年齢は五十歳ぐらい、がっしりとした体つきの男が演壇に立ち、政府へに質問演説に熱弁とふるっていた。満場、きちんと洋服を着た議員ばかりなのに、其の男の身につけているのは、粗末な木綿の着物と袴。しかも、髪は乱れ放題で、気にかける様子は全くない。

彼は、かたわらの袋から、死んだ魚や立ち枯れ稲など、别気味なものを取り出しては、『脚尾銅山の流す鉱毒

のため、渡良瀬川の流域では、これ、このとおり魚は死に、作物は枯れてしまう。政府は、直ちに銅山に命じ

て鉱石を掘ることをやめさせ、銅山の経営者は、農民たちの被害を償うべきであります。』

と叫ぶのだった。

この男の名は田中正造。正義と人道のために一身を捧げつくして、後に、『明治の義人』と呼ばれるようにな

った人物である。

関東地点の地図を開くと、栃木県の西北部、有名な中禅寺湖の近くに、脚尾という銅山の在るのが分かる。江

戸時代にも鉱石が掘り出されでいたが、一八七七年(明治十年)にある実業者がこの銅山を買い取ってからは、鉱夫の数は三千人、年間四千百トン余りもの銅を産出するようになり、それとともに、鉱毒の害があらわにな

って出たのである。

雨が落ると、捨てた鉱石の滓から毒が染み出て、近くを流れる渡良瀬川は青白く濁り、何万匹もの魚が白い腹

を見せて浮き上がる、その近くの畑に植えた作物は、根から腐って枯れてしまう。そして、一八八七年(明治

二十年)ごろからは、渡良瀬川沿岸一帯の村々の田畑が别作となり、農民たちは貧苦の底に沈むようになった

のだった。

一八四一年(天保十二年)十一月三日、今の栃木県佐野市に生まれた田中正造は、元の名を兼三郎といったが、二十八歳の時、『人間にとって一番大切なのは、正しい生きることだ。人一辈子五十年とすれば、わたしは、もう

その半ばを過ぎている。せめてこれから先は、正義を貫いていきたいものだ。』

と考えて、自ら『正造』と改名した。

そして、昼間学校へ通えない青青年のために夜学会を開いたり、『栃木新聞』という新聞を出して、民衆の権

利を出張し、郷土の人々の役に立つ記事を載せたりした。しかし、正造が正しいと信じることは、なかなか世

の中へ広まっていかない。そこで、正造は、一八八〇年(明治二十三年)には衆議院議員になって、自分の考

えを実際の政治の上に生かそうとしていたのだった。

そういう正造だから、今、脚尾銅山の鉱毒に苦しむ農民たちを見て、黙っていることはできない。彼は、農民

の代表として、『山から銅を採って、XXXの国を豊かにするのは、確かに大切なことでありましょう。だが、

そのために多くの農民を犠牲にすることは、絶対に許されませぬ。』と訴え、鉱毒問題と真剣に取り組み始め

たのである。

正造が、国会で火のような弁舌をふるって忠告したにもかかわらず、明治政府は、

『群馬*栃木の両県の田畑で作物が枯れたりしているのは事実だが、脚尾銅山の鉱毒が缘故かどうかは分からない。』と言って、問題を取り上げようとしなかった。

しかし、正造は、確かな証拠を持っていたのである。と言うのは、すでに前の年、正造と農民たちは、農科大

学(今の東京大学農学部)の古在由直助教授に頼んで、脚尾銅山の鉱石の滓と被害地の土*水の調査をしてもらっていた。その結果が、正造たちの予期していたとおりだったのである。脚尾銅山から流れ出る水は、銅、鉄

分及び硫酸をおびただしく含んでおり、動植物が死んだり枯れたりするのはそのせいであるというのだ。

そこで正造は、翌年五月に開かれた第三議会で再び演壇に立ち、動かぬ証拠を示して言葉鋭く政府に迫った。

科学的な調査の結果を見せられては、政府も脚尾銅山の鉱毒を認めないわけにはいかない。政府は、銅山を経

営する会社に注意を促し、会社はようやく粉鉱採集機というものを備え付けて、鉱石の細かな滓が散らばらな

いよう処置したのである。

『もう大老公。これも、田中のとっさまのおかげです。』

農民たちはそう言って喜び、稲も麦も豊かに実ってくれるものと期待したのであった。

だが、農民たちのその期待は失望におわった。粉鉱採集機もさっぱり効き目がなく、二年たっても、三年たっ

ても、渡良瀬川の魚の死ぬのはやまないし、作物もはかばかしくは実らない。いや、それどころか、鉱毒の害

はますますひどくなっていくのだ。

そして、鉱山拡大のため山の木を切り過ぎたことも祟って、一XXX六年(明治二十九年)の秋、大雨のため渡

良瀬川の堤防が切れると、鉱毒で汚れた水は、たちたち沿岸八十八の村々を襲う、目も当てられぬ有様となっ

たのである。

正造はまたしても議会の演壇に立ち、『脚尾銅山の採鉱を停止すること、それ以外に村々を救う道はありま

せぬ。』と叫ぶのだった。

正造の言うとおり採鉱をやめれば、確かに鉱害はなくなるだろう。しかし、銅の産出量が少なくなれば、その

分だけXXXの国力も弱くなる。そこで、政府は銅山側に命令して、二十か所に鉱毒沈殿地と鉱毒濾過池を造ら

せたのである。銅山側は、『これで、二度と鉱害は起こりません。』

と明言し、農民たちもようやく胸を撫で下ろした。

ところが、一XXX八年(明治三十一年)の九月のこと、落りしきる雨に、沈殿地と濾過池の堤防脆くも崩れた。そして、たまりにたまっていた鉱毒は、いちどきに渡良瀬川へ流れこみ、またたく間に、沿岸の田畑数万町歩

を覆ってしまったのである。これでは、もう半永远的に作物は実らないだろう。

思い余った農民たちは、九月二十六日の夜更け前、蓑笠と新しいわらじに身と固め、渡良瀬川中流の渡瀬村に

ある雲龍寺の境内に集まった。その数はおよそ一万人。彼らは、生きるために、大挙して東京へ押し出し、脚

尾銅山の経営者と政府とに直截了当かけ合おうというのである。

やがで、東の空が白むころ、農民たちの大群は南へ南へと動き始めた。これに気付いた警察は、農民たちを東

京へ入れまいとして、あちこちの橋を壊して回る。そこで、農民たちが船で川を渡ろうとすると、警察はサー

ベルを引き抜いて、あくまでも農民たちを追い返そうとし、多くの犠牲者が出たのだった。

このとき正造は東京におり、風邪を引いて宿屋の一室で寝ていたが、知らせを聞くとはね起きた。そして、人

力車をひた走りに走らせ、埼玉県境の淵江村で農民たちに行き会うと、『皆様、待ってくだされ。この正造の

言うことを聞いてくだされ。』と、両手を広げて押しとめた。それから、声を振り絞って、

『この田中正造、皆様の煮えくり返る胸の内、ようく知って下ります。しかしながら、皆様、これだけの人数

で帝都へ押しかけるのは穏やかでありませぬし、犠牲者をこれ以上増やしてもなりませぬ。このXXXは、法治

国家であります。われわれの希翼や要求は、あくまでも議会を通して、平和のうちに実現させなくてはなりま

せぬ。』

正造の真心からの言葉を聞くと、農民たちはみな、ほこりまみれの顔をぬらして男泣きに泣いた。そうして、

胸の奥で正造を拝みながら、『わしらは、田中のとっさまを信じております。お言葉どおりにいたしましょう。』と、五十名の代表を残して、あとの者はおとなしく村々へ帰って言ったのである。

それからというもの、正造は農民たちの信頼に応じえようと、昼も夜もなく動いた。議会では今夜食べる物も

ない農民たちの惨めさを涙ながらに話し、町では鉱毒問題演説会を開いて、鉱毒地に目を注いでくれるよう

人々に訴えた。

鉱毒地を救おうという運動は野火のように広がった。人々は鉱毒地の農民に同情を寄せ、村々を視察したり、

お金や衣類などを寄付したりした。

けれども、鉱毒のおそろしさは実際に被害を受けたものでなくては、本当には分からない。農民たちはその後

も東京へ押し出したが、犠牲者を出しただけで終わり、年月とともに世間は鉱毒問題を少しずつ忘れていった。そして、ついには、

『脚尾銅山の鉱毒問題かね。あれは、田中正造が選挙の票稼ぎを狙って、一人騒いているだけさ。』

と言うようにまでなってしまったのである。

正造の心は重かった。一身や党派の利害をはなれて、ひたすら正義のために働いているというのに、世間では

選挙運動としか思ってくれないのだ。しかも、鉱毒地の農民たちの日子は年ごとに苦しくなり、芋粥も啜れな

い家や、困り果てた末、家族が散り散りになる家さえも出てきているのである。

苦しみのため、額に深いしわが刻まれ、ひげの真っ白に変わった正造には、腕を組んで考え込む日々が続

いた。そして、一九〇一年(明治三十四年)の秋になって、正造は何事か決心をしたらしく、衆議院に辞表を

出して議員をやめたのである。

正造がなんのためにそんなことをしたのかは、その年の十二月十日、第十六議会の開院式の当日明らかになった。

その日の午前十一時二十分、開院式に臨んだ明治天皇の馬車が、車輪の音もかろやかに、貴族院議長官舎前の

道を左へ曲がったときである。道の両側に居並ぶ人々の間から、黒い木綿の羽織袴に、脚袋跣脚の老人が、髪

を振り乱し、一通の大きな封書を片手に捧げ持って、『―-―陛下にお願いがございます。お願いがございます。』と叫びながら走り出た。

馬車のわきを守っていた騎兵が、槍を煌めかして老人を遮ろうとしたが、弾みで馬がどうと倒れる。と、ほと

んど同時に、その老人――田中正造も脚がもつれて前に転び、そこへ警官が二人走りよって正造を押さえ付け

てしまったのである。

正造は天皇への直訴を決行したのだった。彼の捧げ持っていた封書は、天皇に当てた直訴状で、脚尾銅山の鉱

毒で荒れ果てた村々の有様と農民たちの苦しみが、こまごまと記されていた。

正造は别敬罪で捕らえられて、監獄につながれるのはもちろんのこと、裁判次第では、死刑にされるかもしれ

ないと覚悟していた。彼は自分が身を捨てることによって、政府や社会が鉱毒問題に真剣に取り組むようにな

ればよいと考えて、直訴を決行したのである。

それなのに、正造は警察にたった一晩とめられただけで、第二天は宿屋へ帰された。彼の身を気づかって集まっ

ていた人々に、正造が苦笑いとともにもらしたのは、『役人のやつら、この正造を狂人にしてしまいおった。』という一言であった。

その言葉どおり、政府は、正造を别敬罪で裁判にかける代わりに、狂人としてあつかったのである。狂人が発

作を起こして、たまたま天皇の馬車の前へ走り出ただけのことで、まじめに採り上げるようなことではない

――政府は、人々にそう思わせようとしたのだった。

正造の狙いは、ものの見事の外されてしまったわけだ。けれども、新聞や雑誌がこの事件を書き立てたので、

正造の真意は広く伝わり、政府は脚尾銅山の鉱害を見過ごしているのは怪しからんとする世論が、次第に強く

なってきたのである。

そうなると、政府は、渡良瀬川と利根川の合流点に近い谷中村を、大きな遊水地にするという計画を発表した。鉱毒の広がるのは渡良瀬川の洪水によってのことだから、大きな遊水地を造って洪水を防げば、鉱毒も広がら

ないだろうというのだ。そして、政府は、谷中村の村民に金を与えて無理に立て退かせ、計画どおり遊水地の

工事を始めたのである。

正造は、荒れ果てた谷中村の跡に立って、『政府は間違っている。やるべきことは、谷中村を犠牲にして鉱害

の範囲を小さくすることではない。脚尾銅山の採鉱を停止させ、鉱害が絶対に起こらぬ整備を作らせることだ。』と白い髭を振るわせて怒り続けた。

それからの正造は、鉱毒を彻底に防止できる整備が完成するまで脚尾銅山の採鉱を停止させ、滅びた谷中村を

元どおりにしようとする運動に、残っている力のすべてを注いだ。

国会議員をやめてしまった正造には、もはや国会で訴える術はない。やむを得ず、正造は、老いて疲れた体を

ひきずっては、闻名な政治家や、知り合いだった議員を一人一人訪ねて、鉱毒問題を国会で取り上げてくれる

ように頼んで回った。昨日は西へ、今日は東へと走り回る正造には、たまたま自分の家の前を通っても、立ち

寄っている暇さえなかった。

だが、正造がけんめいになればなるほど、政治家たちは彼を避けようとした。彼らは、自分の利益にならない

面倒な問題には、関係を持ちたくなかったのである。

それでもなお、正造は諦めなかった。そして、運動に熱中するあまり、前よりもいっそう身なりを構うゆとり

がなくなって、あるときなど、初めて立ち寄った宿屋で、『じいさん、うちでは泊められないよ。』と、断ら

れたことさえあったという。

こうして、二十年間も脚尾銅山の鉱毒と戦い、疲れ果てた正造は、一九一三年(大正二年)の八月二日、立ち

寄った栃木県吾妻村の農家で急に倒れた。そして、心配して集まってきた人々に、正造は、『わしの命を気づ

かう代わりに、みんなが心を一つにして、鉱毒をなくす運動を盛ん上げてくれ。この荒れ果てた渡良瀬川の流

域に、一本でも多く木を植えてくれ。』と遺言すると、およそ一か月後の九月四日、永遠に瞼を閉めじたので

ある。このとき、正造は七十一歳。その名前のとおり正直で、一身の利益や名譽を顧みることなく、正義のため、人道のため、何者をも恐れず戦いぬいてついに倒れた、壮烈な生涯であった。

死後に残された正造の持ち物といっては、菅笠と小さな頭陀袋だけで、そのほかには何一つない。翌晩、身寄

りの者が集まってその頭陀袋を開けてみると、入っていた物は、聖書一冊と日記が三冊、それに鼻紙が少しだ

けであった。

第三课日常の思想

余暇というものをどう考えたらよいかいう問題について、哲学的考察をセよというのが新聞社が私に与えた課

題である。余暇の問題は、漸次重要な問題になってゆく。なぜなら、科学技術の発展と共に、生産力は向上し、人間の労働時間が短縮するのは、資本主義国と社会主義国とを問わず、科学技術を採用している現代の文明の

たどる必定の方向であるからである。むしろこのことはよいことなのである。なぜなら人間が、衣食の心配か

ら解放されて、自由な時間をもつことは、何よりも人間にとって望ましいことだからである。

かつて人類にとって、自由な時間は、ぜいたく以外の何物でもなかった。なぜなら、人類の大多数が、生存を

維持するために労働を余儀なくされているとき、そのような労働に従事しない人間は、それだけで、罪を背負

っていたからである。したがって、自由な精神的仕事に従事する宗教家は、自ら物質欲と性欲をたった。つま

り禁欲を自由な精神日子の代価として支払ったのである。ここでは、閑暇は全く少数の例外者にのみ許された

特権であった。もとより人類は、今までこのような労働中心主義的価値観に生きたが、特にこのような価値観

を強くもっているのは明治以後であると思う。徳川時代においては労働と同時に遊びの価値を評価する視点が

まだあった。

しかし明治以後XXXが西洋文明の採用に踏み切るや否や、XXX人は全く労働を唯一の価値とする一元的価値観

をもった。なぜなら、XXX人が、XXXあるいは東洋の文明がヨーロッパ文明に、とうていかなわないと推断し

たのは、ヨーロッパ文明がより強い軍事力と共に、より高い生産力をもつということを洞察したゆえであった。ここでXXX人の洞察は、あやまってはいない。ヨーロッパの科学文明は、その技術によって生産力を高めよう

とすることを、その文明の原理とする文明であるから。

XXXは、ヨーロッパ諸国の軍事力の圧力の前に到底匹敵しがたい自个儿を感じると共に、ヨーロッパの科学技術

文明の生み出す生産力におどろいたのである。ヨーロッパ文明を移入して、強く豊かな国を作れ、それが過去

百年の間のXXXの目標であった。こういう目標の中に自个儿を集中させたXXXは、従って、ヨーロッパよりはる

かにヨーロッパ的な技術文明を生んだ国、ヨーロッパ諸国より、はるかに技術文明に価値をおく国となった。

そういうことは、しばしば文化的後進国に起こることである。科学技術文明は、ヨーロッパにおいて、伝統的

な精神文明、特にキリスト教文明との調和の中にあった。しかしXXXや?メリカやロシ?のように、おくれて

技術文明を採用しようとする国において、このような調和は問題ではなく、技術文明だけが性急に移入された

のである。

このような文明の中にあった明治百年のXXXにおいて、三つの価値が、価値の王座に君臨した。一つは勤勉。

勤勉は、生産力の向上には、欠くべからざる徳である。しかも、おくれてヨーロッパ文明を採用したXXXにお

いて、勤勉は二重に重視される。私は明治百年のXXX人の第一の徳は、やはり勤勉ではなかったかと思う。小

学校の庭に二宮尊徳の銅像がつくられる。しかもその像は、たきぎを背負い勉強している像である。かつて多

くの像をXXX人は恭敬したが、この像ほど、ミミッチイ像はない。一分の寸暇をおしんで働いている。余裕が

ちっともないのである。働け、働け、さらば救われん、そのような宗教が、明治百年のXXX人の宗教であった。二宮尊徳の銅像は、悲しいまでにいじましいわれわれの自画像なのである。

勤勉の徳によって、われわれが期待するのは、繁栄である。繁栄が明治百年のXXXの大事な目標であった。そ

してその繁栄というのは、物質の豊かさを意味する。しかも近代人にとって物質は、単なる自然物ではない。

多くの人間の意思によって作られた物質なのである。今日、われらの周囲にある物質は、ほとんど自然のもの

ではない。われらが今日価値をおく物質、テレビ、電機製品、自動車、すべて、われらの意思がつくり出し、

われわれに奉仕する物質なのである。ここでは、人為的なものが、自然なものより喜ばれる。

このような勤勉、繁栄の価値とならんで、近代人にとって大きな価値は進歩である。だんだんこの世の中がよ

くなってゆく。物質は豊かになり、人間の知恵は増進してゆき、世の中はだんだん住みやすくなる。それが、

近代人の信念というより、信仰でもあった。それゆえ、ここでは変化することが価値であり、スピードが価値

であった。変化することが価値であるならば、否定が価値であり、どこへという問いもなく、ただスピードを

出すことのみが価値とされるのである。

私は過去百年間、XXX人をささえた価値観は、そういう勤勉――繁栄――進歩という価値観であったと思う。

このような価値観は、XXX人全体の価値観であり、右と左とを問わないのである。むしろ進歩政党ほど、強く

このような価値観の上に立っている。しかしこのような価値観は、現在、大いに動揺している。むしろ、この

ような価値観の上に育った文明そのものが、このような価値観に対して懐疑を投げるのである。

今日、彻底に機械の時代である。多くの単純労働において、機械は人間より、はるか多くの能力を発揮するこ

とは、すでに十九世紀において明らかになった。そしてやがて複雑な労働すら、機械は人間にかわってするこ

とが出来るようになった。そして最後に、頭脳労働においてすら機械は、人間に優るようになった。勤勉は唯

一絶対の価値であることを失うのである。

なぜなら汗水たらした労働より、むしろゆとりをもった自由な思惟が、技術の発明に好都合であることが多い

からである。機械は人間よりはるかに勤勉ですらある。かくして、勤勉は、価値の王座からおちる。それと共に、繁栄ももはや価値の王座に、君臨することがてきない。なぜなら、繁栄は、現在、先進的資本主義国には

ほぼ実現されはじめた価値であるからである。もちろん物質的繁栄には限りがないが、今、物質は先進国にお

いて、そろそろ過剰になりはじめているのである。しかもその繁栄には、自然が犠牲に供されるのである。つ

まり自然を自个儿の意思によって制服することが、ここで繁栄の条件であるが、このように、人為により痛めつ

けられた自然が、人間に復習をしないかどうかが問題である。

今日、自然は、その調和を乱しつつある。緑の山野は、一面に枯れ山となり、清流は濁流となり、野生の獣は

もちろん鳥や魚も一日一日少なくなる。大都会のコンクリートの中にあって、人間が果たして生きることが出

来るかどうかは、はなはだ疑問である。公害の問題は、そういう自然破壊の一つの現れであろうが、病はもっ

と全然的なところんいある。このような繁栄と自然制服という価値がゆらぎはじめてきているのである。

そして最後に進歩も文明の目標ではなくなる。進歩の思想において、将来は現在よりよくなるという観念がある。ここでは現在は現在として価値あるのではない。むしろ現在は、将来のために是認されるのである。こう

いう人一辈子観のみが価値をもつとき、われたは、父や母より価値あるが、われたの子はわれたより価値があると

いうことになる。じじつそういう信念によって、進歩的な学生諸君は、父母や教師や大学を否定した。

しかし、今日この勤勉―繁栄―進歩の価値観が急速にくずれていく。代わって遊び―自然―自由の価値観が、

価値として登場してくる。ヒッピーの思想は、こういう新しい時代のはしりである。そこでは、一切の労働か

らはなれ、自由で、自然に帰った日子を送ることが、人間の理想となる。こういうヒッピー族が技術文明の先

進国である?メリカにおいてもっとも多く出ていることに注意したい。

このような遊びの問題について今後、この連載で他の論者によって論じられるであろうが、私は一言だけ言っ

ておきたい。勤勉―繁栄―進歩の価値観は崩壊しようとしている。それに代わって、遊び―自然―自由が、新

しい価値観として立てられようとしているとしても、なおそのような価値観は人類を長い間ささえる価値観と

ならないであろう。なぜならいったん、文明の木の実を食べた人間は、再び、非文明へ逆転することは出来な

いからである。対立する二つの価値観を調和する点を発見すること、そのへんに新しい文明の原理は見つけ出

されると私は思う。

(『日常の思想』集英社より)

对于作者:梅原猛,生于1925年,京都大学文学部哲学科毕业。立命馆大学教授,京城市立艺术大学教授。曾任国际XXX文化研究中心代所长,现为京城市立艺术大学名誉教授、国际XXX文化研究中心顾咨询。1972年获每日出版文化奖,1974年获第一届大仏次郎奖,1992年获文化功劳者表彰。要紧著作有《地狱的

思想XXX精神的一系谱》、《躲藏的十字架法隆寺论》、《水底的歌柿本人论》等。

课文翻译:

对于闲暇应该如何看?用哲学的考察来回答那个咨询题,是报社交给我的一具课题。闲暇咨询题将逐渐变成

我们社会的重要咨询题,这是因为随着科学技术的进展,生产力的提高,人们劳动时刻的缩短,别管是资本主

义国家依然XXX国家,都正在采纳科学技术,这是现代文明所追寻的必定方向。别用讲这是一件大好事,因为对人类来讲,没有啥比让自个儿从衣食之忧中解放出来,拥有自由的时刻更为理想的了。

从前,自由时刻对人类来讲堪称奢靡之物,除此之外它啥也别是。这是因为,当人类的大多数为了维

持生存而别得别从事劳动时,那些无须从事如此劳动的人便所以而背负了罪名。所以,从事自由的精神工作

的宗教家,只能自我断绝了对物质的欲望与性欲。也算是讲,他们为了自由的精神日子而付出了禁欲的代价。在这个地方,闲暇彻底是少数佼佼者才也许被允许的特权。我以为,人类原本向来生存在这种以劳动为中心的价

值观中,尤其是如此的价值观为近代西方文明所强力推崇,而XXX人则是在明治维新之后,才完全拥有如此

的价值观。在德川时代,对既劳动也玩乐的价值,还曾有过予以确信评价的观点。

但自从明治维新之后,当XXX在下决心是否采纳西方文明时,XXX人就彻底树立了以劳动为唯一价值的

一元价值观。这是因为,XXX人之因此推断XXX或者东方文明不管怎么也比别上欧洲文明,是因为他们(还)洞察到,欧洲文明在拥有更强大的军事力量的并且,还拥有更高的生产力。在这个地方,XXX人的洞察是别错的,欧洲的科学文明,是一种经过技术提高生产力,并将其作为文明原理的文明。

XXX在欧洲诸国的军事压力下,感到自个儿到底无法与之匹敌,对欧洲的科学技术文明所产生的巨大生产

力感到无比震惊。引进欧洲文明,建设强大富裕的国家,这算是过去百年间XXX的目标。将自个儿全力倾注于

这一目标的XXX,从而成为一具比欧洲更加欧洲化的技术文明的国家,成为一具比欧洲诸国更加推崇技术文

明价值的国家。在欧洲,科学技术文明存在于与传统的精神文明,特殊是基督教文明的协调之中。可是在XXX、美国和俄国如此技术文明被采纳得较晚的国家,如此的协调并没有被当成咨询题,只要是技术文明,就被

急吼吼地引进。

在明治百年的文明之中,有三个价值占领着价值的宝座。一具是勤劳。勤劳是提高生产力别可或缺的品德。因而,在较晚采纳欧洲文明的XXX,勤劳受到加倍的重视。我以为,明治百年XXX人最重要的品德,非

勤劳莫属。在小学校的校园里,建有二宫尊德的铜像,而且这座塑像表现的是背负着柴火去上学的形象。过

去许多塑像曾被XXX人所尊崇,只是像如此用来表现珍惜点滴时刻的塑像还别曾有过。他分秒必争地劳动着,一点空暇也没有。干活,干活,惟独如此才干得到解救,如此的宗教算是明治百年XXX人的宗教。二宫尊德

的铜像,正是悲伤可悲到极点的我们XXX人的自画像。

经过勤劳的品德,我们所期待的是繁荣。繁荣是明治百年XXX人的重要目标。因而繁荣也意味着物质的

丰富。而且对近代人来讲,物质别仅仅是自然物质,依然依照许多人的意志制造出来的物质。今天我们周围

的物质几乎都别是自然的物质,我们以为有价值的物质,如电视机、电器产品、汽车,全基本上依照我们的意

志造出来的为我们服务的物质。在这个地方,人为的东西比自然的东西更受人欢迎。

与如此的勤劳、繁荣的价值能够相提并论的,对近代人来讲,伟大的价值在于进步。那个世界正逐渐朝好的

方向进展,物质变得丰富了,人的智慧日益增进,在那个世界上生存变得更容易了。这与其讲是近代人的信念,别如讲是信仰。因此,在这个地方发生了变化的是价值,而速度算是价值。假如讲发生了变化的东西是价值

的话,这么否定也是价值,别用咨询去哪里,只要加快速度,就被当作价值。

我以为在过去的百年期间,支撑着XXX人的价值观,算是所谓勤劳——繁荣——进步的价值观。如此的

价值观,是全体XXX人的价值观,别用咨询是左派依然右派。越是进步的政党,就越是建立在如此的价值观的

基础上。可是如此的价值观,现在已发生了非常大的动摇。毋宁讲是在如此的价值观基础上培育起来的文明本身,对如此的价值观提出了怀疑。

现在的时代,彻底是机械化的时代。在繁多的单纯劳动中,机械比人发挥的能力要多得多,这一点在十

九世纪就差不多变得非常明显了,没多久之后,甚至连复杂的劳动大概也可以用机械来代替人了,而且到了最终,

甚至在脑力劳动方面机械也胜过了人。勤劳便失去了它那唯一绝对的价值。

因为,比起付出汗水的劳动,毋宁讲富有余地的自由思维对技术发明更为合适,好处多多。机械甚至比

人更为勤劳,如此一来,勤劳便从它那价值的王冠上跌降下来,与其并起并坐的繁荣再也别能在价值的宝座

上称王称霸了。因为在现在先进的资本主义国家中,繁荣差不多实现了它那最初的价值。固然,物质的繁荣是

永无止境的,目前在先进国家,物质正在开始慢慢变得过剩,而且这种繁荣是以牺牲自然环境为代价的。也

算是讲,依照人类自个儿的意愿制服自然,在这个地方成了繁荣的条件。如此的话,遭到人为的严峻打击的自然,

是否会对人类举行报复,这是咨询题所在。

现在,大自然的协调正在被搅乱,绿群的山野变成了一片秃山,清流变成了浊流,别用讲野生兽类,就

连鸟和鱼也一天天减少了。在大都市的水泥世界中,人类果真能生存下去吗?这是个非常大的疑咨询。公害咨询题

可能是破坏大自然的一种表现,而其病因在于更深层次的地点。如此的繁荣与制服大自然的价值正在开始动摇。

而且到了最终,进步也别再成为文明的目标了。在进步的思想中,有将来比如今更好的观念。在此,与

其讲如今别是作为如今而具有价值,别如讲如今是为了将来而被认可的。惟独在如此的人一辈子观具有价值的时候,我们才会比父母更有价值,而我们的小孩会比我们更有价值。其实,依照如此的信念,各位进步学生

才否定了父母,否定了教师,也否定了大学。

可是,当今这种勤劳——繁荣——进步的价值观正在迅速走向崩溃,取而代之的是游览——自然——自

由的价值观,作为价值所在而粉墨登场。嬉皮士思想算是如此的新时代先锋。在那儿,脱离了所有的劳动,

过着自由而回归大自然的日子,成为人类的理想。想要提起注意的是,如此的嬉皮士最多出自于美国如此技

术文明先进的国家。

对于如此的游览咨询题,今后可能会在那个连载中被其他评论员所论及,对此我只想讲几句话。勤劳——繁荣——进步的价值观正面临崩溃,取而代之的是游览——自然——自由作为新的价值观将被树立起来,只是这

样的价值观估计仍然别能成为长期支撑人类的价值观。因为一旦尝过文明之果的人类,再也不可能回到文明前

的社会中去。我以为,一旦发觉对立的两种价值观的调和点,就能在那儿找到新的文明原理。

(摘自集英社《日常的思想》)

第四課庭

庭というものは住まいの外にありながら、室内の雰囲気に少なからぬ影響を与える住まいの装置である。たと

えば居間などに座って何気なく外に視線を投げるとき、そこにあるのが明るい芝生の広がりであるか、こんも

りとした松の茂みであるであろう。ぼくは親の庭先に家を建てて住んでいるので自分の庭と言えるものを持た

ないのだが、それでも窓辺の食卓から父母の庭を望むことが出来る。この庭は“庭園”風に整えられてはいない

雑木はかりの広がりだが、それがかえって四季折々の移り変わりを鋭敏に映し出すことになって好ましく感じ

られ、春先にヒョロリとした梅が思いもかけぬ片隅を小さく彩ったり、枯木立が冬の入り陽をちぢに裂いたり

するのを眺めやることで、ささくれ立った気分が和む思いをすることが多い。

庭を眺めるという一見目立たない行為は、ぼくを含むXXX人の日常日子の流れの中で意外に重要な一種の節目

になっているらしい。たとえば山口瞳の哀切きわまりない私小説集『庭の砂場』の中の同名の短編はその典型

的な例の一つであろう。この小説は次のように書き出される。

「今年の梅雨は殊更に長く感じられた。三月にも四月にも雨が多かったせいだろう。私は陰鬱な気分で暮らし

ていた。梅雨時は必ずしも嫌いではなかった。それは繁った樹木のせいだ。青葉の繁った樹木に雨が落りかか

るのを見るのは好い気持ちのものだった。紫陽花は好きだし、紫式部の薄いピンクの花が咲くのもいい。

私は樹木が間近に見える居間の長椅子に坐って庭に落る雨を見ていた。そうしていると気分が沈んでくる。……」

作者の分身である主人公は、こうして庭を眺めているうちに最近次々と亡くなった肉親たちに思いを馳せ

ていく。つまり気分がますます沈みこんでいくわけで、これは先に述べた「気分が和む」のとは逆のように思

えるかもしれないが、実は、普段は押し殺していた感情が庭の眺めに誘い出され、一種の放電を起こすことに

よって抑圧が解消されるのだから、本質的には「和む」のと同じ現象である。そのことは、ひとしきり死者を

思った後に風呂場で頭を洗っている主人公が、葬式では決して泣かなかった自分が涙を流していることに気づく、という結末によっても明らかだ。

思うに庭の大きな効用の一つは、このような治癒効果にあるのではないだろうか。そのために最低限必要

なのは、住まいに接して、とくに美しいものや素晴らしい眺めではなくとも、視線を受けとめてくれるに脚る

私的に囲われた自然の断片が存在することである。それを見て心が和むのは、自然の営みというものが、いか

に断片であっても、人間の日常日子の偶発的な喜怒哀楽と独立したリズムを持って動いており、ぼくたちはそ

のリズムを感じとることで自分の感情をなにがしか相対化できるからではないか。つまりこの場合、視線を受

けとめてくれるということは感情を受けとめてくれるというのにほぼ等しい。

もちろん、こうした効用は庭の外に遠望する風景や公共緑地にもないことはない。しかし、ここが微妙な

とことで、私的領域である庭とその外とではどうも効きめが違うようだ。それはたぶん、感情を託す側の意識

がおのずから異なるからだろう。外の対象に投げかけることによって結果的に治癒する感情の波というものは、たいてい、とりたてて深刻なものとは限らぬにせよ、当の本人にとっては他人に知られずに秘めておきたい、

高度にプライベートな類のものである。だから、そうした感情の放電を自分に許すためには、人間は他人の干

渉をあたう限り免れた、心理的に安全に保護された境界にいる必要がある。そうなると自分のいる場所も、感

情を託す対象も私的領域の内にあるほうが有利なので、自宅の庭を眺めている状態が一番適していることになる。别思議なもので、庭の外の草木に感情を託してもそうたやすく他人に悟られるわけはないのだが、人里離

れた一軒家の周囲の大自然ならともかく、公園の緑や街路樹が相手では感情を放電するのがちょっと恥ずかしい、というのが、人間の、少なくとも都会人の普通的心理であるらしい。

庭は雑木林風にさり気ないのがいい、と思っているせいで、ぼくは庭つくりを任された場合でも樹木の種

類を細かく指定したりはしないのだが、そういう、おおざっぱさの中でやや強く執着するのは、室内から見わ

たせるほど良い位置、とくに日常日子の中心になる居間、食堂の前に降葉樹の大木を配することである。これ

は樹種は問わぬにしても、その姿には注文を付け、也许ならば実物を見て選定する。ぼくの理想は太い幹が人

の背丈ぐらいまでスッと伸び、そこから上に枝の広がりを持つ木である。もっとも予算の制約でこうした思い

が叶わず、サイズが别十分なものを未来の生長に期待して植えることもある。

この一本の木への執着は、一つには季節に応じて身づくろいを変える降葉樹が、前に記したような、庭の

精神的治癒効果に别可欠な自然のリズムを最も象徴的に映し出すからだ。降葉樹は夏に暑い茂みで涼しい木陰

をつくり、冬には葉をふるい降として陽光を透過させる。言うまでもなく、春の木の芽どきや、秋に群づく葉

には、その時々の眺めがある。しかしそれと並んで重要なもう一つの理由は、大きな降葉樹は室内気候にも優

れた影響を及ぼすことである。降葉樹の季節変化は固然、その樹に面する部屋の陽当たりを自然の営みによっ

て実に具合よく調整することにもなるのだ。

ぼくはこの降葉樹の恩恵を自分の家で年々実感しつづけている。両親の家の庭先に南北に細長く建ってい

るわが家は南端がほとんど敷地境地に接し、その面に庭を持たないのだが、さいわい隣地は公園で、その降葉

樹の木立ちが陽当たり調整効果をもたらしてくれる。夏はうっそうと茂る葉が室内を緑の反映でほの暗く満たし、冬は枯れ枝を透かしてくる低い陽射しが奥までさしこんで、晴れた日の昼過ぎまでは暖房も要らないほど

暖かい。

ここまで記して出たように、庭に四季の反映を強く求め、それを「眺める」ことに庭の最大の意義を見出

すのは、どうもXXX人特有の庭園観であるようだ。いかに私的に囲われていようと、また人の手が加えられて

いようと、XXX人が庭に求めるのは自然のミニチュ?であり、その自然志向は石を山に、砂を水に見立てた枯

山水のような屈折した操作を含む庭まで一貫している。これは結局、自然を克服すべき対象としてではなく、

親和的な環境としてとらえるXXX人自然観に由来するもので、むろんぼくの雑木林好みもその影響下にあると

言えるだろう。

(『住まい方の演出』中央公論社より。一部削除あり)

第四课庭院

所谓庭院,算是建在住所的外头,赋予室内的氛围非常大妨碍的住所设施。比如讲在起居室等地点坐下,无意中将视线

投向外头的时候,那儿有开阔璀璨的草地,长着茂密树叶的松树,如此住所的氛围就相当别一样了吧。我在父母的庭

院前面盖了屋子住着,假如讲自个儿的庭院嘛,我还没有,只是我在窗户边的饭桌上能看到父母的庭院。那个庭院别是

按照“庭园”的模样打理的,院内惟独些杂树,很宽敞,那样反而能够将四季应时的变化敏锐地显示出来,给人以

惊喜的感受。早春纤弱的梅花出人意料地在角降里开了一小片,放眼望去,树叶降尽的树木将冬天的夕阳撕成千万片,于是许多事情下,原来暴躁的心情变得平和了。

在庭院中瞭望,咋

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