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文档简介

戦後文学

“戦後派”のメンバーは「近代文学」の同人平野謙(ひらのけん)・本多秋五(ほんだしゅうご)、荒正人(あらまさと)、小田切秀雄(おだぎりひでお)、埴谷雄高(はにやゆたか)、山室静(やまむろしずか)、佐々木基一(ささききいち)などの評論家を含めて、野間宏、梅崎春生、中村真一郎、椎名麟三(しいなりんぞう)、武田泰淳(たけだたいじゅん)、大岡昇平、安部公房、堀田善衛(ほったよしえ)、三島由紀夫等がいる。

戦後文学戦後による旧秩序の崩壊と価値の転換は既成の文学とまったく異質の新しい文学を創造せずにはおかなかった。その第一歩は昭和二十一年一月から「近代文学」の七人の同人は自己の主体に即した新しい近代的文学の基準を探求するところから、戦後の批評活動を始めたことである。

戦後文学それと同時に、ほぼ同じ基盤に立って野間広が『暗い絵』を、中村真一郎が『死の影の下に』を、梅崎春生が『桜島』を書き、翌年椎名麟三が『深夜の酒宴』を、武田泰淳が『蝮(まむし)のすゑ』を発表した。

戦後文学彼らの作品は既成の素朴なリアリズムとも、新劇作とも、戦前のプロレタリア文学運動の流れを汲む民主主義文学とも違っているから、“第一次戦後派”と呼ばれる。さらに昭和二十三年、大岡昇平が『俘虜記』を、二十四年に三島由紀夫が『仮面の告白』を、昭和二十六年に安部公房が『壁―S·カルマ氏の犯罪』を、堀田善衛が『広場の孤独』を発表した。

戦後文学これらの作品は先に言った“第一次戦後派”が切りひらいた道の延長線に生まれたものである。こういう点で、彼らも“戦後派”であり、時期が“第一次戦後派”よりやや遅れていたので“第二次戦後派”と呼ばれる。

戦後文学戦後派文学に見られる共通な特徴を指摘すると、第一に自然主義、私小説の伝統からの決別である。第二に観念性である。第三に実存的傾向である。第四に、主題が世界と人間の本質にかかわる一般的問題を追及するものとなったため、作品の題材は拡大し、そして著しく批判的性格を帯びるようになった

無頼派

無頼派文学の成立無頼派は戦後的な新しい文学の作者として注目された一群の作家のことを指して言う。戦前の昭和十年ごろ既に文壇に登場した太宰治、坂口安吾、石川淳、織田作之助、伊藤整などはこの流派の主な作家である。

無頼派

「無頼派」は新戯作派とも呼ばれる。実は「新戯作派」という呼ばれ方が「無頼派」より早かった。「無頼派」にしても「新戯作派」にしても、それぞれ彼らの文学の実態に即してつけられた名前である。

無頼派

今では、「無頼派」という称呼は流行っているし、そして彼らの文学をも代表することができる。昭和二十年八月十五日から、戦後という時代が始まった。敗戦直後の混乱、混沌の中で、主流派、正統派として形成されつつある勢力があって、その勢力に対して反抗し抵抗し闘争するのは無頼派なのである。

無頼派

無頼派(リベルタン)というのはフランスから来た言葉であり、フランスの十七世紀ごろの、自由思想を謳歌してずいぶん暴れまわった人のことを指して言う。その自由思想は即ち反抗精神、破壊思想であり、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想である。

無頼派

十七世紀フランスのリベルタンはキリスト教の権威、教条主義に反逆し抵抗した思想家たち、文学者たちである。その闘争の結果、彼らはルネッサンス思想を啓蒙思想へと発展させた。また彼らは反道徳、放蕩の言動に赴くことになった。彼らの性質をくくって言えば、「無頼」、「放縦」、「独立不羈」というようなものである。

無頼派

無頼派(リベルタン)文学の実質はつまり明治・大正期に完成した近代文学の主流派・正統派なるものを否定したものである。それら既成文学(自然主義以来の私小説が中心であるが、漱石文学なども含めて)は自らの本当に欲求する本心を見定めて苦悩に飛び込み、自己破壊を行うという健全なる魂・執拗なる自己探求というものはなかったからである。

無頼派

日本の既成文学は近世日本の大衆娯楽読み物としての戯作文学を否定したが、無頼派はまた既成文学を否定しようとした。ここから無頼派の反既成の批判精神が窺われる。

無頼派

無頼派は新日本文学会に次いで形成された文学流派である。この流派は文学団体も機関誌もない。「無頼派」と呼ばれたのもは彼らの文学の主張と実質によってである。太宰治が自ら「無頼派」と名乗ったのも後ほど文学評論家たちが彼らを無頼派と呼んだ要因になろう。

無頼派

太宰治の文学太宰治(1909-1948)の本名は津島修治(つしましゅうじ)という。青森県北津軽郡のある大地主の家に生まれたことは彼の文学と生涯に決定的な影響を与えた。母が病弱であったため、乳母に育てられ、早熟で異常なほどに感受性の鋭い子供として成長した。

無頼派

太宰治は大正十二年県立青森中学に入学し、大正十四年(中学三年の頃)密かに作者を志して、習作を発表した。昭和二年弘前高校に入学し、芥川龍之介の自殺から強い衝撃を受けた。昭和五年東大仏文科に入学し、多年敬愛していた井伏鱒二に会い、その後長く師事した。

無頼派

この頃から左翼運動に関係するようになったが、その重大な意味は左翼運動に入ったことではなく、そこから脱落したことであり、生涯その罪悪意識を保ち続けていた点である。昭和五年の秋、弘前高校時代に知り合って愛情を深めた青森の芸妓小山初代を東京に呼び寄せたため、「すべての肉親を仰天させた」。

無頼派

さらに同じ年十一月銀座裏のバーの女と江の島で投身自殺をはかり、彼だけが漁船に救われた。このことを彼は『道化(どうけ)の華』、『虚構の春』、『狂言(きょうげん)の神』の三つの作品で取り扱っていた。

無頼派

昭和九年『葉』『猿面冠者(さるめんかじゃ)』『彼は昔の彼ならず』などを発表し、昭和十年「都新聞」の入社試験に落ち鎌倉の山で縊死を図って失敗した。続いて盲腸炎で入院したが、鎮痛のために用いたパビナールのため後々まで中毒に悩むことになった。

無頼派

同じ年彼は『逆行』を発表し、そしてこれによって第一回芥川賞の次席となった。芥川賞を獲得したのは石川達三の『蒼茫』である。『逆行』で新進作家としての地位を固めた太宰治は経験の生々しさのため従来の客観描写を主とする小説形式のほかに踏み出して独白、告白の方法で小説を書き、当時の文壇に新鮮感を与えた。

無頼派

昭和十一年太宰治の処女作品集『晩年』は第二回芥川賞の候補となったが、残念なことに今回彼はまた芥川賞の入賞を逸してしまった。その後太宰治はおおいに落胆し、そして井伏の勧めでパビナ-ル中毒症を根治するために入院した。昭和十二年『虚構の彷徨』『二十世紀旗手』を刊行し、小山初代と水上温泉で睡眠薬で自殺を企てたが、未遂で終わった。

無頼派

東京に帰った後小山初代と別れた。昭和十四年彼は『姥捨(うばす)て』、『満願(まんがん)』を発表し、そして井伏の媒酌で石原美知子と結婚した。結婚後の太宰治は生活的に最も平静な時期に入り、作品にも装われた道化の賑やかな姿を消し、ゆとりのある飄逸味が溢れていた。

無頼派

この時期に書いた作品は主に『富嶽(ふがく)百景』『女生徒』『黄金風景』『懶惰(らんだ)の歌留多(かるた)』、『駆け込み訴え』『女の決闘』『走れメロス』などがある。

無頼派

ここで注目すべきことは彼の文学が根本的には愛情の歌であると見られるが、多くの場合、愛情の中にむしろエゴイズムを、憎悪の中にむしろ愛情を発見するという性格のものであった。

無頼派

昭和十六年から昭和二十年にかけて太宰治は主に歴史小説を書いた。これは戦争中彼の精神の異常をそのまま作品に納入することを許さなかったからである。この時期の主な作品は『東京八景』『新ハムレット』『千代女』、『正義と微笑』、『右大臣実朝』『津軽』、『新釈諸国噺(しょこくばなし)』『惜別』『御伽草子』である。

無頼派

『惜別』は防空壕に出入りしながら書かれたものであり、医学を志して来日した若き日の魯迅が文芸に自らの天職を見出すまでの思想的苦悩と変転を描いたものである。太宰治のような戦時中でも健筆を振っていた作家は日本では稀であろう。

無頼派

敗戦後、太宰治は彼の晩期創作に入った。この時、彼の文学が放っている怪しく生々しい光芒は誰の目にも鮮明に映らずにはいられなかった。現代の危機意識に出発した彼の文学は敗戦後の人々の胸にいや応なしに強い現実感を伴って訴えてきたのである。

無頼派

敗戦間もなく『バンドラの箱』を発表し、それから『苦悩の年鑑』『十五年間』、戯曲『冬の花火』『春の枯れ葉』『ヴィヨンの妻』などを続々と発表した。昭和二十二年大作『斜陽』を発表してから、大きな反響を巻き起こし、彼は流行作家としての栄光と若い読者の賛美に包まれた。

無頼派

昭和二十三年彼は『桜桃(おうとう)』と『人間失格』と書いてから、過労と飲酒のため体を害していた。同じ年の六月彼は『朝日新聞』に連載予定の『グッド・バイ』の草稿、妻への遺書などを残したまま戦争未亡人山崎富栄と共に玉川上水(たまがわじょうすい)に入水自殺した。その時は彼が僅か三十九歳であった。

梅崎春生と『桜島』

梅崎春生(1915-1965)は福岡市に生まれ、父が陸軍士官学校出身の歩兵少佐である。春生は五男兄弟の次男である。昭和十一年東京大学国文科に入学した。昭和十四年「早稲田文学」の「新人創作特集号」に『風宴(ふうえん)』を発表した。

梅崎春生と『桜島』当時の軍国主義の政治情勢と作家自体の動揺を感じつつあった作家の化身である<私>が民衆運動から脱落の過去を忘れようとして頽廃の淵に陥りかけながら、社会的条件にうちひしがれ、それだけが良心の最大限度である生活を如実に描いた。

梅崎春生と『桜島』昭和十五年、東大を卒業して東京市教育局研究所の雇員となった。十九年に軍隊に徴用され、佐世保の海軍団に入って、暗号特技兵となった。兵隊の身分では辛いというので、下士官教育を受け二等兵曹になり、敗戦まで九州の陸上基地を転々とした。

梅崎春生と『桜島』このときの経験をもとに、昭和二十年十二月出世作『桜島』を書き、翌二十一年雑誌「素直」に掲載した。これを戦後文学·戦争文学の代表作の一つに数えられる。

野間宏

野間宏(1915-1991)は神戸市の出身で、父が電気技師であった。幼少時代、父の勤務の関係で横浜、津山と転住し、西宮に落ち着いた。父は在家仏教の一派の教祖であって貧者の間で布教していた。野間宏は父の宗門の後継者として五歳の時から宗教的修業をつまされ、地獄絵の修羅に仏教の罰のおそろしさを身にしみて感じた。

野間宏大正十四年、野間宏が十才の時、父を失って以後はもっぱら母の庇護によって昭和二年大阪府立北野中学に入学した。昭和二、三年から夏目漱石、芥川龍之介などの作品を読み、とくに谷崎潤一郎の作品を愛読した。

野間宏かたわら正岡子規の影響の下に俳句、短歌を作ったが次第に詩を書き始め、漠然と文学者になろうという考えは芽生えた。昭和七年、高校に入り、その頃サンポリズムの詩人竹内藤太郎との出会いによって文学に開眼した。

野間宏またバルザック、フローベール、ドストエフスキー、ジョイス、プルースト、ジードの影響を受け、さらに昭和九年マルクス主義と運動に関心を持つようになった。昭和十年京都大学仏文科に入学し、京大学生運動の中心的メンバーや阪神地方の労働者の政治グループとも結ばれた。

野間宏昭和十三年に大学を野間宏卒業した野間宏は大阪市役所社会部に入り、部落関係の仕事を担当した。部落の人との接触は戦時下の重圧から彼を解放した。昭和十六年に戦争拡大の関係で野間は補充兵として戦場に赴いた。十七年帰還後、翌年思想犯として逮捕され、大阪陸軍刑務所に入所した。

野間宏その年の暮れに出所して、監視つきで兵役にもどった。翌年召集解除になったが、刑余者のため市役所に帰還できず、軍需会社で働いた。同年富士光子と結婚した。

野間宏敗戦後野間は直ちに『暗い絵』の執筆に着手し、翌二十一年「黄蜂(きばち)」に発表した。以後続いて登場した梅崎春生・椎名麟三らのいわゆる第一次戦後派の先頭を切って戦後文学の第一歩を印した。その執拗に迫る特異な文体と主題の発見はかつて日本文学には無かった斬新さを示し、一躍注目された。

野間宏その後『二つの肉体』、『地獄篇第二十八歌』、『哀れな歓楽』、『顔の中の赤い月』を経て、『崩壊感覚』に至る中、短篇において、人間のエゴイズムの醜悪さを戦争が人間内部に与えた傷痕と見て、そこからの脱却の方途を模索し続け、ジョイスやプルーストの方法に学び、人間の意識の精密な追求こそ「時代の弾圧と肉体の抑圧によって自己の中にとじこめられた自分の意識内容を解放する方法」だと考えた。

野間宏また、これらの中、短篇において戦争下の体験が刻印したエゴイズムと人間崩壊の主題がそれぞれ極めて微視的に拡大され、過去の日本文学の自然主義、心理主義の諸傾向とプロレタリア文学の社会性との止揚を踏まえて、

野間宏まさに前人未踏ともいうべき文学的境地を志向している。その妥協のない技法上の達成は昭和二十三年に発表した『崩解感覚』において最高度に示された。野間宏昭和二十一年に野間宏は日本共産党に入党し、新日本文学会にも入会した。翌年「近代文学」、「総合文化」の同人に参加し、戦後芸術運動の推進者の主な一メンバーとなった。しかし、以上の諸作品は共産党、民主主義運動の主流からはその近代主義的傾向を批判された。

野間宏昭和二十三年より翌年末にかけて明治大学文学部フランス文学科講師としてヴァレリーを講じ、この間『暗い絵』に続いて戦争下における知識人の自己形成の道を究めて多元的かつ全面的に追求しようとする野心的な長編『青年の環』が書き継がれていった。

野間宏昭和二十五年冒頭のコミンフォルムによる日共批判派は日共の分裂をもたらし、その影響は新日本文学会にも及び、党の主流文学者によって「人民文学」が創刊され、野間はその編集に携わった。

野間宏昭和二十八年発表した『真空地帯』は人間を外側から的確に浮き彫りにして、陸軍刑務所内の一インテリ兵の目から見た最下層庶民出身の一在監兵の姿を描くことによって、日米軍国主義を批判した作品である。

野間宏好評を受けたこの長篇は同じ年毎日出版文学賞を受賞した。その後株式市場内部の大証券対中小証券の葛藤を通じて資本主義体制を内部から抉った力作『さいころの空』、壮大な自伝的長編『わが塔はそこに立つ』、『干潮(かんちょう)のなかで』などの諸短篇を発表し旺盛な想像力を示した。

ほかに未完の長篇として『時計の眼』、『地の翼』の二編もある。

野間宏小説とならんで、芸術方法、理論の追求、人生論、政治的、社会的発言などの多岐にわたってエッセイを発表した。例えば『文学の探求』、『人生の探求』、『感覚と欲望と物について』。また『黄金の夜明け』という劇曲を書き、演劇運動にも関心を示した。昭和三十九年の秋、党の紀律違反に問われて党を除名された。

大岡昇平

昭和二十五年『武蔵野夫人』、二十六年『野火』などの秀作が相次いで世に問い、そして『野火』によって読売文学賞を受賞した。昭和二十八年十月渡米し、米国からさらに渡欧、スタンダールの故地を歴訪した。

大岡昇平この旅行の印象は旅行記『ザルツブルクの小枝』で多彩に語られている。昭和三十四年、戦後になって始めて登場した戦後派の作家の多くとは違って大岡昇平は戦前において既にスタンダールの研究家、翻訳者として知られていた。

大岡昇平大岡昇平文学の特質は次のとおりである。1、実存主義の傾向;2、素朴リアリズムからの意識的断絶と新しい方法の模索;3、反政治主義などである。

大岡昇平大岡の文学作品は上に述べたいくつかを除いて、また長編小説『酸素』『化粧』『レイテ戦記』『ハムレット日記』『雌花(めすばな)』『花影』と短編小説『サンホセの聖母』『振分髪(ふりわけがみ)』がある。

大岡昇平この他、評論集『詩と小説の間』、翻訳スタンダール『変愛論』『パルムの僧院』などがある。『中原中也伝』『朝の歌』などの評伝と回想は彼の文学精神の源流を語り明かしている。

三島由紀夫

三島由紀夫(1925-1970)は小説家、劇作家として日本及び世界各国の人々に知られている。本名は平岡公威(ひらおかこうい)という三島由紀夫は東京の生まれで、六歳のとき、学習院初等科に入学し、幼小のときから父方の祖母に愛されて、中学入学の時までその膝下に育ったのである。

三島由紀夫その後、三島は学習院中・高等科を経て昭和十九年東京大学法学部法律学科に進んだ。学習院中等科在学中に最初の小説『酸模(さんぼ)』を書き、学習院「輔仁会雑誌」に掲載された。彼は早くも<大人の仲間入り>したのである。

三島由紀夫昭和十五年、詩作に耽り、十六年の秋に小説『花ざかりの森』を三島由紀夫のペンネームで国文学雑誌「文芸文化」に発表した。この小説の創作を機縁として母校の師である清水文雄と接近し、また彼を介して「文芸文化」の同人たちと接触した。日本浪漫派の間接の影響を受けたと見られるが、それは美意識乃至美学の領域にのみ止まったのである。

安部公房と『砂の女』

安部公房(1924~1993)は東京に生まれ、父が満州医大の医者であった。そのため、公房は生後すぐ満州奉天市(今の瀋陽市)にわたり、昭和十五年の成城高校入学まで、同市で暮らした。昭和十八年東大医学部に入学し、十九年診断書を偽造して奉天に戻り、この地で終戦を迎えた。

安部公房と『砂の女』昭和二十一年暮れに日本に引き上げ、父がその間に死亡した。中学後半以降の公房は文学的な好奇心が旺盛で、活字でさえあれば、古今東西を問わず読みふけるという濫読家であった。敗戦後の境遇の激変によって医学よりも文学に一層興味を持つように変貌し、哲学書も耽読し始めた。

安部公房と『砂の女』その文学活動は『無名詩人』の出版から始まった。また『経りし道の標(しる)べに』などの作品もある。昭和二十三年東大医学部を卒業し、ついに結婚し、生活は極度に困窮したが、作者志望の決意は固く、あえて聴診器をもたなかった。昭和二十五年『赤い繭』で第二回戦後文学賞を受賞した。

安部公房と『砂の女』昭和二十六年に書いた『壁――S・カルマ氏の犯罪』は第二十五回芥川賞を受賞し、公房は特異の新人として一般の注目をあびた。この作品によって脱出不能を思われるような壁を凝視して、その内に逆転の方向を探るという彼の文学的冒険の基本的方向が打ち出された。

安部公房と『砂の女』その以後の小説作品としては『闖入者(ちんにゅうしゃ)』、『飢餓同盟』、『けものたちは故郷をめざす』、『第四間氷期(だいよんかんひょうき)』、『石の眼』、『砂の女』、『他人の顔』などがある。其の中で『砂の女』は高く評価されて、読売文学賞を受賞した作品である。

“第三の新人”の文学特徴

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