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近世文学概観1、幕藩体制の確立慶長八年(1603)の江戸幕府の解説から慶応3年(1867)の大政奉還までの約270年間を文学史上近世という。応仁の乱以来の長い戦乱は織田豊臣政権によって終止符が打たれた。大名領国による封建支配体制が確立したが、徳川幕府はそれを引き継いで、中央集権的幕藩体制を完成させた。それは、農本主義の領国を士、農、工、商の身分制度によって固め、参勤交代の制度を柱とした各藩へ支配と対外的には鎖国政策をとり、秩序を維持する体制であった。1、幕藩体制の確立近世文学概観幕府はこの君臣の秩序を重んずる学として朱子学を採用し、文治政策を進めたので、徳川三百年といわれる泰平の中で、学問と文化が普及し栄えた。1、幕藩体制の確立近世文学概観2町人の文化中央集権的な封建制の元で、交通網が整備され、各藩も自給自足的な経済にとどまることはできず、流通経済が発達した。大阪京都江戸などの大都市を中心に、各地の城下町を結ぶ商業が盛んになり、都市の町人は次第に資本を蓄積して実力を伸ばしていった。それとともに、武士の保守的な伝統文化の枠内には求められない自らの文化的欲求を持つようになった。近世文学概観近世の文化はこうした町人、庶民層の欲求を核として、武士、学者らの知識人までを含む、様々な階層の人によって生み出されたものである。。こうした町人文学の隆盛には、庶民教育の普及による享受層の拡大と印刷技術の発達などの要因が大きく貢献している。近世文学概観2町人の文化3参勤交代江戸幕府の大名統制策の一つ。原則として、一年交代で諸大名を江戸と領地と住居させた制度。1635年の武家諸法度改定により制度化された。往復や江戸屋敷の経費は大名財政をあっぱくしたが、交通の発達や文化の全国的交流を促すなど各方面に影響を与えた。近世文学概観4、前期が上方が中心元禄時代(1688-1703)に隆盛を極めたもので、元禄文学とも言われる。『好色一代男』、『日本永代蔵』を書いて浮世草子の代表者となった井原西鶴、『奥の細道』などで俳諧の芸術性を高めた松尾芭蕉、『曽根崎心中』など浄瑠璃の名作を残した近松門左衛門など文豪が輩出した時代である。また、この時代に葉『古事記伝』を著した本居宣長によって国学が完成され、古典研究が盛んになった。近世文学概観5後期の中心は江戸に享保年間(1716-1735)を境に文化は東に移っていたが、文化・文政期(1804―1829)になると開花した。上方では浮世草子が西鶴の死後、八文字屋本として広く読まれた。そして、読本が流行した。代表作としては上田秋成の『雨月物語』がある。やがて読本は舞台を江戸に移した。山東京伝・滝沢馬琴によって本格的な読本が確立した。この期の代表作としては滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』がある。近世文学概観その他のジャンルとして遊里を舞台とし、男女の会話を主とした洒落本、その流れを汲む人情本や滑稽本などがある。人情本の代表としては為永春水の『春色梅児誉美』があり、滑稽本の代表作は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』がある。これらは庶民に広く読まれているが、文学的価値は低く、戯作文学という。近世文学概観5後期の中心は江戸に上述の文学作品は商品として広く普及するようになったが、その背景には、寺子屋など庶民教育の普及の充実により、識字率が向上して読者層が厚くなったこと、印刷技術の普及によって多くの部数が出版できるようになったことがある。そんな土壌に支えられて、、文学作品が商品として成り立つようになった。近世文学概観5後期の中心は江戸に俳諧俳諧とは俳諧連歌の略称であり、中世末期から流行してきたが、はじめは滑稽味のある連歌で、連歌の会の余興として行われるに過ぎず、近世になってから手軽な文芸として民間に流行し始めた。俳諧の様式を整えて和歌の一種として独立させたのが松永貞徳である。松永貞徳――貞門俳諧を創始中世末期に山崎宗鑑・荒木田守武によって盛んになった俳諧連歌は、近世に入って文芸として確立された。その大成者が松永貞徳であり、貞徳一派の俳諧を貞門俳諧という。貞徳は『新撰犬筑波集』を批評して『新増犬筑波集』を著し、俳諧の初心者向けの手引き書とした。貞徳は連歌の形式に倣って俳諧の決まりごとや用語を定め、これまでの卑俗な俳諧を高めるとともに、各地に広く流行させた。しかし貞門俳諧の俳風は保守的・古典的なもので、ウィットを弄する言葉の遊戯といった性格が強く、生気に乏しかった。門下には松江重頼、安原貞室、北村季吟らがいる

しをるるは何かあんずの花の色(松永貞徳)松永貞徳――貞門俳諧を創始談林俳諧――笑いを誘う新興の俳諧貞門俳諧がマンネリズム化する状況に新風を吹き込んだのは西山宗因の率いる談林俳諧だった。宗因はわずらわしい方式に固執する貞門俳諧の保守性には批判的で、題材・用語・表現の自由を大胆に唱えた。そして人の意表を突くような風変わりな言葉を使い、古典の詩歌文章をパロディ化して茶化したりした。そんな奔放で笑いを誘う俳風は、当時急速に台頭した町人階級に好まれ、貞門俳諧に取って代わる新興俳諧となった。しかし談林俳諧は、詩としての内容を高めることができず、十年間の流行の後、次第に行き詰まっていった。ながむとて花にも痛し首の骨(西山宗因)談林俳諧――笑いを誘う新興の俳諧天和年間、談林調からの脱皮を試みる動きがおこって、俳諧に芸術性を求める風潮が現われ、そんな新しい俳諧を求めた人々に、池西言水(ごんすい)・上島鬼貫(おにつら)・山口素堂らがいた。中で上島鬼貫は「まことのほかに俳諧なし」と主張して、禅の精神に学ぼうとする独自の方向を示した。談林俳諧――笑いを誘う新興の俳諧彼らの動きは、やがて幽玄の美を求め、閑寂枯淡を重んじ、俳諧を文学にまで高めた蕉風俳諧尾先駆をなしていた。そして蕉風の確立者、松尾芭蕉の登場を迎えることになる。目には青葉山ほととぎす初鰹(山口素堂)談林俳諧――笑いを誘う新興の俳諧松尾芭蕉と蕉風松尾芭蕉(1644~1694)は、本名宗房、号は桃青、風羅坊。伊賀上野の藤堂氏に仕え、その子良忠の近侍となった。良忠とともに季吟から俳諧を学んだ。23歳のときに出奔、京都を中心に俳諧放浪の生活が続いたが、のち江戸に下り談林派の影響をうけた。1680年、芭蕉庵に入り、俳諧師としての生活を始めた。やがて談林派の俳諧に飽き、次第に独自の俳境を模索・開拓し、それまでの俳諧を遊戯文学から閑寂高雅な純粋的な詩へ引き上げ、蕉風を樹立した。芭蕉をはじめとする蕉門の一派によって俳諧は芸術にまで高められた。松尾芭蕉と蕉風蕉風はいくつかの変遷の跡が見られる。第一期は天和三年(1683)から貞享元年(1684)までである。『冬の日』『春の日』には、漢詩文調の堅苦しい調子が残っている。この時期は蕉風の確立期であり、蕉風の理念『さび』の境地をうかがうことが出来る。第二期は貞享二年(1685)から元禄四年(1691)までであり、蕉風の完成期である。松尾芭蕉と蕉風『曠野』『ひさご』『猿蓑』が成立するころで、特に『猿蓑』は蕉風の頂点に達した作品である。表現は穏やかになっており、旅から旅への生活の中で自然と一体化し、「さび」の境地を深めている。第三期は元禄五年(1692)以降である。「軽み」の境地への発展で、それは『炭俵』『続猿蓑』に見ることが出来る。松尾芭蕉と蕉風これらの作品では、芭蕉は気取りを捨てて、高雅な精神をもち、とらえた対象もわかりやすい言葉で表現するようになる。芭蕉は不断の追求の中で、蕉風を深化・発展させ、それまで面白み・おかしみを狙った低俗な俳風を一掃し、「わび」「さび」「軽み」などの理念を確立し、それに「不不易流行」などの俳論を提出し、俳諧を和歌などと同じような詩文学に引き上げたのである。松尾芭蕉と蕉風芭蕉の俳論はその門人たちに『去来抄』『三冊子』にまとめられている。蕉風の表現は平易でありながら内容は深い。用語としては俗語も使うが、雅語に劣らぬ深い味わいのものなので、かえって高度の通俗美を生んだのである。古池や蛙飛び込む水の音初しぐれ猿も小蓑をほしげなり旅に病んで夢は枯野をかけ廻る松尾芭蕉と蕉風芭蕉の紀行文――『奥の細道』ほか松尾芭蕉はかつて西行らと同じく、旅に生きた詩人であった。寂しく苦しい旅を通して、自然と人間の心に触れ、思いをつづった。芭蕉は人生を旅に見立てて晩年の十年間の大半を旅に過ごした。そして五編の優れた紀行文を残した。古里の伊賀に旅した時は『野ざらし紀行』を書き、『笈の小文』では吉野への旅を記した。元禄二年(1689)三月下旬、門人河合曾良(かわいそら)を伴って江戸を出発した。

芭蕉というペンネームの由来:江戸の俳諧師桃青が深川に庵を結んだ翌年、ある門人が芭蕉の株を送った。以来桃青の庵は芭蕉庵と呼ばれた。桃青は風が吹けばすぐ破れる芭蕉の葉を愛でて、俳号にも芭蕉を用いるようになった。芭蕉の紀行文――『奥の細道』ほかそして日光・白河関(しらかわのせき)・仙台・松島・平泉・尾花沢(おばなざわ)・象潟(きさかた)・金沢・福井・敦賀(つるが)を経て、九月三日に大垣に到着した。この距離は焼く二千四百キロ、足かけ七ヶ月の大旅行であった。このたびの記録が『奥の細道』である。書名は本文中に「おくの細道の山際に十符の菅有」とある地名から来たものと思われる。次は『奥の細道』序文である。芭蕉の紀行文――『奥の細道』ほか月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。船の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老を迎ふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり、予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず……。芭蕉の紀行文――『奥の細道』ほか現代語訳月日は永遠の旅人であり、来ては去り去っては来る年々も、また同じように旅するものである。船の上に一生を送り、馬を引いて老いゆく者は、日々が旅であって、旅そのものが棲家となってしまう。風雅の道に一生をささげた古人のうちにも、旅中に逝いた者の数は多い。私もいつのころからかちぎれ雲を吹き飛ばす風にそぞろ誘われて、あちこちさすらい行きたいとの思いは止むときもなく……現代語訳人間への深い関心芭蕉は道徳的・克己的な一面を持つとともに、浪漫的・人間的な心情の持ち主でもあった。したがって、『奥の細道』においても、自然の風光について書かれた部分は意外に少なく、人間関係に多くの紙幅を費やしており、これは人間的なものへの深い関心の現われとも言える。また、『奥の細道』は旅行の記録を目的としたものではなく、あくまでも文芸作品として完成されたものである。作品全体をまとめるために旅の順番を前後させたり、途中を省略している。したがって、俳句は必ずしも行く先で作られたわけではなく、あらかじめ思いついた句を適切な場面に配置していると思う。人間への深い関心芭蕉は奥羽への旅を思い立った動機は歌枕の探訪にある。歌枕とは数々の歌に詠まれた名所のことである。芭蕉は古来の歌に詠まれた名所旧跡をたどることで、古人の心に迫ろうと考えた。『奥の細道』では、変貌してしまった歌枕への落胆、千古の姿をそのまま伝える碑に対する感動、自然の前にはかなく移ろうとする人間たちの営みへの思いなどが格調高くつづられている。人間への深い関心芭蕉の紀行文は、東海道を下って関西に至った『野ざらし紀行』、鹿島へと下った『鹿島紀行』、伊賀・芳野・明石に遊んだ『笈の小文』、木曽路をたどった『更科紀行』などがある。また旅先で書かれた随筆・日記は近江国(おうみのくに)滞在中記された『幻住庵記(げんじゅうあんのき)』、京都滞在中に記された『嵯峨日記』がある。人間への深い関心蕉門の人々連衆の文芸として、芭蕉の達成が優れた弟子によることは言うまでもない。芭蕉の門下には、宝井其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草ら蕉門十哲をはじめ多くの俳人がおり、蕉風はほとんど全国に及ぶ勢いであったが、芭蕉の没後は、それぞれ一派をなして分裂した。なお、自身でまとまった俳論を残さなかった芭蕉の俳諧観は、去来の『去来抄』、服部土芳しの『三冊子』など、門下の論者によってうかがうことができる。この木戸や錠のさされて冬の月(宝井其角)蕉門の人々天明の中興――俳諧復興の動き天明の俳諧芭蕉が没した後、蕉門俳諧内の分裂抗争によって低俗化していた俳諧を、再び芭蕉の昔に戻そうという動きが起こった。これはいわゆる天明の中興運動である。そして炭太衹(たんたいぎ)、横井也有(よこいやゆう)、大島蓼太(おおしまりょうた)らとともに与謝蕪村(よさぶそん)が登場することになる。蕪村は「天明の中興」という俳諧復興の中心人物であり、天明調を確立した俳人である。蕪村は享保元年(1716)大阪に生まれ、早く両親に死に別れ、わかくして江戸にでて絵画と俳諧を学んだあと、京都に移った。画家として活躍していたが、その後、中興俳諧の中心人物として、蕉風復興を唱え、画俳一理の考えで、画家として追求している美の世界を俳諧の中にも生かした。そのため俳諧は絵画的・印象的な色彩感が豊かである。天明の俳諧天明の中興――俳諧復興の動きまた、中国や日本の古典の世界にも通じていたため中国趣味・古典趣味の句を多く詠んだ。晩年には俗悪に染まったこれまでの俳諧を非難して、「離俗論」を唱え、浪漫的かつ高踏的な態度を示した。芭蕉の求道的な精神性の高さに対して、蕪村の世界は芸術至上的な文人の世界である。天明の俳諧天明の中興――俳諧復興の動き春の海終日のたりのたり哉[口語訳]春の浜辺には一日中波がゆったりと寄せてはまたかえしていることよ。牡丹散って打かさなりぬ二三片[口語訳]白牡丹の花が散って、二三片の白い花びらが黒い土の上に重なっている。五月雨や大河を前に家二軒[口語訳]五月雨が降り続いて、大河は水をみなぎらせ手流れている。その前に小さな家が二軒、心細そうに並んでいる。天明の俳諧天明の中興――俳諧復興の動き『新花摘』――絵を描くように句をひねる『新花摘』は安永六年(1777)に成立した与謝蕪村の俳諧句文集である。一日約十章ずつ作った発句と放浪時代を回顧した随筆風の俳論・俳文を収めている。亡くなった母親の冥福を祈る思いが、執筆の動機となっている。ほかに『春風馬堤曲』などの俳詩は、近代の詩人たちから高く評価された。天明の俳諧小林一茶――俳諧低迷期に現れた俳人天明の中興を過ぎて幕末期の文化・文政期(1804~1829)に入ると、俳諧はますます流行したが、質的にはきわめて低俗化していった。その中でただ一人優れた個性を発揮したのが小林一茶である。幕末の俳諧一茶の生涯は不幸の連続だったといえる。1763年信濃国(長野県)に生まれ、母を失った一茶は継母とうまく行かず、14歳のころ江戸に出る。そして諸国を放浪し俳諧修行に励んだ。51歳のとき故郷に帰り、65歳で不遇の一生を終えたのである。幼いころから孤独を味わい続けた一茶は自然にその俳諧に弱者への同情と強者への皮肉という気持ちが流露したのである。幕末の俳諧小林一茶――俳諧低迷期に現れた俳人俗語・方言などを駆使して、生の感情を表出した。題材は庶民生活感情から取ったものが多いため、浪漫性にやや乏しいが、個性に富んでいて、人間味があふれている。彼は『父の終焉日記』『おらが春』など、真情あふれる句文集を書いている。痩蛙負けるな一茶これにあり我と来て遊べや親のない雀幕末の俳諧小林一茶――俳諧低迷期に現れた俳人――一茶57歳の句文集『おらが春』は嘉永五年(1852)に刊行された句文集である。文政二年(1819)元旦から年の瀬まで、一茶57歳の一年間の随想と発句が記され、中には幼少の愛娘の死も綴られている。一茶晩年の円熟した境地を示す作品である。一茶には句集のほかに、父の死と一ヶ月にわたる看病生活をつづった『父の終焉日記』などがある。幕末の俳諧『おらが春』狂歌――狂体の和歌狂歌とは狂体の和歌という意味で、形式は短歌と同じである。もっぱら俗語を使い、機知・滑稽を詠みこんだものである。特に先行の文学をもじって、皮肉や風刺を帯びた滑稽味を盛ったものが多く、一種の遊戯文学である。和歌に滑稽さを盛り込む表現は古くからあり、『万葉集』『古今和歌集』などに戯咲歌(ぎしょうか)・俳諧歌として見られる。狂歌と川柳室町時代の末には山崎宗鑑らが盛んに作っている。江戸時代に入り松永貞徳をはじめとする貞門俳諧の俳人たちは好んで狂歌を作ったので、狂歌の誕生は貞門俳諧からと言える。狂歌の最盛期は文化の中心が上方から江戸に移ってからの天明期で、江戸っ子好みの洒落と風刺が加わり、奇抜な着想の洒脱な歌が詠まれ、天明調狂歌といわれている。狂歌――狂体の和歌狂歌と川柳狂歌集『万載狂歌集』が出版され、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・四方赤良(よものあから)・朱楽菅江(あけらかんこう)らが活躍した。次の化政期には流行はしたが質的に低下してきた。狂歌――狂体の和歌狂歌と川柳川柳――柄井川柳の名前から俳諧が普及すると、次第に雑俳という遊びが流行しだした。雑俳とは課題が提出され、それに応じて付句をする形式である。川柳はその雑俳のうちの前句付けの付句が独立したものである。前句付は、俳諧と違って厳格な規則もなかったので大いに流行した。そして前句付専門の撰者である点者が現れた。狂歌と川柳1765年、柄井川柳が選んだ句を呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)が編集し、『俳風柳多留』と名づけて刊行した。それが好評を得て続編が刊行された。そのため、点者の名をとって川柳と呼ばれた。川柳は俳句とは違い、季語・切れ字の制約もなく、滑稽・諧謔の中に風俗や人情の機微をとらえ、軽快な江戸町人の気質に合い、江戸庶民に好まれた。川柳――柄井川柳の名前から狂歌と川柳清盛の医者ははだかで脈を取り寝ていても内輪の動く親心孝行のしたい時分に親は無し役人の子はにぎにぎを能く覚え(賄賂政治への痛烈批判)川柳――柄井川柳の名前から狂歌と川柳漢学と漢詩文鎌倉時代初期に渡来したといわれる朱子学が、徳川幕府によって保護されさかんとなったが、陽明学・古義学・古文辞学などの反朱子学も現れ、江戸時代も後半になると、漢詩文に優れた学者・詩人が輩出した。狂歌と川柳儒教を官学として江戸幕府は、身分制度による封建社会維持のため、文

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